058.守る資格
どれくらい眠っていただろう。
いや、ずっとまどろんでいただけか。台所の冷蔵庫に背中を預け、床に両足を投げ出してる自分がいた。フローリングの床に直接座ってるせいで、身体の節々が痛い。姿勢を崩して床に力無く横たわる。俺の視線は、ずっと虚空をさまよってた。
自分の部屋で眠れないのは、愁がいるから。ずっと部屋の中でベッドの上にうずくまったまま、動こうともしない。寝てるのかどうかすら、ここからだと確認できない。
俺は愁の心を酷く傷つけてしまった。信じてくれてる愁を裏切って、溢歌と一緒になってしまったから。もちろん全面的に俺が悪い。
どれだけ弁明しようがどうにもならない事はわかり切っていた。俺が朝日も昇らない早朝に帰宅して、部屋で愁を見つけた時、激しい後悔の念に襲われた。しかし今は何とも思わない。取り返しのつかない事態になってしまうと自分を苛む気にすらなれないのか。
ベッドの上で泣き喚く愁に、かける言葉は見当たらなかった。せめて話だけでも聞いてもらおうと口を開くと、愁は枕を頭の上に被り、必死に俺の声に耳を傾けまいとした。
なので俺は何も言わず部屋の電気を消して、こうして隣の台所へ逃げた。家から離れられないのは、こんな状況でも愁の事を見放せないからだろう。さっさとバイクでも走らせて溢歌の元に戻ればいいのに。そう何度も思っても、足は動かなかった。
こんな時には浴びるほど酒でも飲みたい。けど愁が連日家に足を運んでいたおかげで、冷蔵庫の中にはクリスマスイヴの残り物のシャンパンしかなかった。
意識だけでなく、俺という存在さえ消滅してしまえばいいのに。
いつも、部屋で一人いる時に思う気持ちとは似て異なっていた。なぜならそれは、誰かを傷つけてしまった事による後悔の念から来ているから。他人を苦しめる事しかできない自分なんて、この世から消滅してしまえばいい。
叔父さん叔母さんの差し伸べてくれた手を振り切って一人暮らしを選んだ時や、青空やイッコー達の気持ちを裏切ってライヴを何度もボイコットした時にも、こんなに苦しむ事はなかったのに。
いつもなら他人を傷つけても自分がよければいいだなんて考えているのに、今こんなに割り切れないのは愁という、俺の事を愛してくれているかけがえのない存在だからだろう。
だからこそ自分自身が許せない。心の中で二人の俺がいて、愁を大切に思う俺が溢歌の手を取った俺を激しく罵っている。もう一人の俺が具現化して、溢歌の元へ行ってくれればいいのに。そうすれば俺はただまっすぐに愁の顔を見る事ができるから。
――そんな馬鹿馬鹿しい考えも、ただの逃避でしかない事は十分承知していた。
今は何時だろう?閉め切った自室のカーテンの向こうは街が動き出している。しかし曇り空なのか薄暗く、部屋の中も夜と大差ない。まるで今の俺の心を象徴するかのような空。
昨日でしばらくバンド活動が休止になったのは、幸か不幸か。しばらく何も考えないでいいと思う反面、この状況から俺を救ってくれるのは『Days』しかない気がした。
ふと、何か曲を口ずさんでみたくなる。しかし愁に聞こえてしまうと余計に心を痛めてしまうだけの気もしたので、あえて止めた。
このまま何もせず、ただひたすら時間を浪費するのか。時折愁の姿を扉越しに確認するも、一向に起き上がる気配を見せない。俺がここにいるから動けないのか。そう考えると、一旦家を出た方がいいのかも。
しかし今の愁は目を離すと、何をしでかすかわからない。前までは溢歌の専売特許だったのに。溢歌の事を考えると気が安らぐのが、今現在唯一の拠り所と言えた。
こうなってしまった以上、しばらく溢歌に会いに行くわけにもいかない。いや、これ以上愁を苦しめないためには、面と向かってはっきり言ってしまったほうがいいのか。
だけどそうしてしまう事で、愁の心がバラバラになってしまうのは容易く想像できる。それで和美さんに嫌われようがみょーに死ぬほどぶん殴られようが、痛くはない。
ただ、愁の希望を全て奪い取ってしまう事が、俺自身を殺すのと同意義な気がした。
これからどうすればいいのかだなんて俺にだってわからない。ひたすら周りの人間に助けを求めでもすればいいのか。こうなってしまった以上、全てが丸く収まるなんて結果には絶対になり得ないわけで、二度とは元に戻らない。
時間を巻き戻したところで、この状況はどうやっても回避できないから一緒か。こうなってしまったのは俺が溢歌に出会った時点で、愁を見限れなかったせいだ。でもあの時にその選択ができたかなんて、全然思えない。
それに俺はその後、愁がそばにいてくれた事でどれだけ助けられたか。きっと一人の力じゃ、バンドに戻ってクリスマスライヴのステージで唄い切るなんて事はできなかった。
だからこそ、だからこそそんな愁を裏切ってしまった自分が憎い。
考え続けていても思考はループするばかりで、何一つ結論さえ出せない。このまま床に寝そべっていてもどうしようもないので、痛む身体を起こし近くの木椅子に座り直した。昨日溢歌を送る時に携帯の電源を切っていた事を思い出し、テーブルの上の携帯に手を伸ばす。これからは愁の事も考えてやらないといけない。
しかしこの携帯電話に、今後愁が電話をかけて来る事があるだろうか?
そんな事を考えていると、突然着信の蛍光が点滅し、ディスプレイが光ったので焦って落としそうになった。青空からだ。
昨日の溢歌の事を聞こうと思って、電話を入れて来たのか?変に邪推してしまうけど、今の空気が耐えられない俺には青空の声すら聴きたかった。愁の方を一度確認してから電話に出る。
「もしもし」
「わ、え……黄昏?てっきり留守録かと思っちゃった」
驚いた様子の青空の声。これまでみたいに、俺に遠慮してる様子はない。
「こんな時間に何の用だ?」
「こんな時間って、もうお昼だよ……しかし、凄い声だね」
「え?……ああ、確かに、喉がちょっと痛いかも」
家に戻って来てからあまり口を開いていなかったので、喉が疲弊している事に今になって気付いた。しばらくは唄わなくていいから、これぐらい問題ないだろう。
「喉はいたわった方がいいよ。――で、ちょっといいかな?」
笑ってみせてから、途端に青空の声のトーンが変わる。
「何だ?溢歌の事か?溢歌ならちゃんと言われた通り……」
「今はそれどころじゃないんだ。落ち着いて聞いて欲しい」
何やら焦っている感じがしたので、俺も黙って耳をそばだてた。
「千夜が――襲われたんだ」
「……え?」
青空の言った意味がよく理解できなかった。
「いいかい、もう一度言うよ。千夜が襲われた。こないだの僕達のワンマンライヴで、千夜と喧嘩した奴等に。幸いにも助けられたから良かったけど、暴行を受けた千夜は水海の病院に運ばれてる。今、僕も病院の前から電話をかけてる。これから他のみんなにも知らせる予定で――黄昏?」
受話器の向こうから聞かされた非現実的な光景に、俺の思考回路が停止してしまった。
「……ちょ、ちょっと待て。ちょっと待てよ」
時間と共に状況を理解し始め、思わず椅子から派手に立ち上がってしまう。隣の部屋にいる愁の肩が大きく撥ねたような気がした。
「何が何だかさっぱりだ。何で千夜が……?第一、終電までに帰ったんじゃないのか」
「それが……みんなが集まってから説明した方がいいのかな。とにかく、病院には千夜の母親と、『N.O』のおやっさんが来てる。今は病室で眠っているようだけど……家族以外は面会謝絶になってる。今から病院の場所を教えるから、すぐに来て。もし、他に用事があるのなら夕方からでもいいけど――」
「……待ってくれ、頭が混乱してる」
あまりに突然な展開に、状況判断がつかなくなってる自分がいる。
「とにかく、千夜が襲われたのは間違いないんだな?」
愁に聞かれないよう、小声で受話器の向こうに確認を取る。
「うん。多少殴られた箇所はあるけど、幸い骨も折れてないし、痣にもなってない。でも……」
青空の言葉が途切れる。その先は聞かなくても容易に想像できた。しかしあまりに非現実過ぎて、どう反応していいものなのかわからない。
「大丈夫、命には別状ないから。ただ、しばらくは顔も合わせる事ができないと思う」
「……何なんだよ、何なんだよ一体っ!?」
俺はありったけの声で怒鳴った。何で神様は、連続して俺に罰を与えるんだ?そんなに溢歌を選んだ事が悪かったのか?千夜の事はどれだけ嫌っていようが、同じバンドで2年以上過ごして来た仲間だ。だからショックもかなり大きかった。
千夜の持つ攻撃性はいつしっぺ返しが来てもおかしくなかったとは言え、まさか本当にこんな事態が訪れてしまうだなんて夢にも思っていなかった。
「怒鳴りたくなる気持ちも解るよ。でも、起こってしまった事は仕方無いから……今から言う病院の場所、メモしておいて。黄昏のマンションからならそんなに離れてないから」
「ああ――わかった」
とにかく心を落ち着かせよう。一旦愁のいる部屋に戻って適当な紙と鉛筆を取って来て、言われた通りにする。
「じゃあ、みんなにも電話をするから。……和美さん達にも伝えた方がいいのかな?」
「一応、伝えておいた方がいいんじゃないか?あ、愁はここにいるぞ」
「そうなんだ。じゃあ黄昏は、愁ちゃんと一緒に来て。じゃ、また後で」
手短に言うと青空は電話を切った。無茶な事を言ってくれる。かと言って、愁に伝えないで家を出るわけにもいかないだろう。
伝える前に、出かける支度をする。そういや昨日から風呂に入っていない事に今更気付いた。身体の不快感を気にする事もできないくらい頭がいっぱいになっていたせいか。
シャワーを浴びている間、何度も握り締めた拳を壁に叩きつけた。やるせない怒りがこみ上げてくる。今の俺に千夜に対してやれる事は何もない。考えていると喚き散らしたくなる気分になってくるので、なるべく心を無にする事を努めた。
風呂場から出て、着替えの準備をする。先に愁に告げたほうがいいのか迷いながら支度していると、結局言えずじまいのまま準備を終えた。
「愁」
部屋を出る前に、ベッドの上で動かない女の子に声を呼びかける。一瞬大きく肩が震え、もう一度名前を呼びかけると体を動かし反応した。起きているようだ。
「すまないけど今はケンカしてる場合じゃなくなった……そのままでいいから、落ち着いて聞いてくれ」
話しながら、冷静を努めるように心がける。今の愁に余計に追い打ちを喰らわせることになりそうな気もしたけれど、伝えないわけにもいかない。
「千夜が前、ライヴでケンカを売られた連中に襲われたらしい。ついさっき、青空から電話があった。今から俺は千夜の運ばれた病院に行く。……ついて来いとは言わないけど、テーブルの上に病院の場所を書き留めたメモを置いてある。動けるようになったら、おまえも見舞いに来てくれ。じゃあ、先に行ってる」
長話をする気にもなれなかったので、要点だけ伝えその場を離れた。謝る言葉が喉までせり上がってきても、声にはならなかった。
靴を履き、外へ出る。愁は俺について来る様子はなかった。今はそっとしておいたほうがいい。と言う以前に、愁に何をしてやればいいのかまるでわからない自分がいた。
地上に出ると頬に冷たい風が容赦なく吹きつけてくる。太陽も見えず、沈んだような曇り空が一面に広がっている。まるで俺の心情を投影してるようだ。
バイクで病院先へ向かおうかと思ったけれど、予想以上に身も心も疲弊しきっていて、徒歩で行く事に決めた。今の気分でバイクに乗ると、前の車に平気でエンジンを吹かして突っ込んでしまいそうだ。
近くの商店街を抜け、普段全く来る機会のない方面へ歩いていく。あれだけクリスマスではしゃいでいたのに、街の空気の色がすっかり平日に戻ってしまっていて気分が悪かった。次は一週間もしないうちに正月気分か。何てお気楽なんだ、世間は。
橋のすぐそばに病院はあり、30分もしないうちに到着した。ここに来るまでの間、心を閉ざしてただ目に映る街並を眺めていた。そうしないと、気が狂いそうになるから。
病院の入口付近に青空とイッコーの姿が見えた。手を振っているので慣れない笑顔を返して合流する。
「ごくろーさん」
珍しくイッコーが疲れた顔を見せている。逆立てている髪のセットも乱れ気味だ。
「寝てないのか?ひどい顔してるぞ」
「あの後朝までラバーズにいて、青空の電話で叩き起こされたよ……千夜の事を聞いた時には眠気もふっとんだけどな、顔見せにいって安心したせいかな……会えなかったけど」
そう言って、あまり整っていない頭を掻いてみせる。目の下にはクマもできていた。
「そーゆーおめーも風が吹けば倒れそうなひどい顔だぜ」
「あー、ちょっといろいろあって寝てないんだ。詳しい話はまた今度にするよ。それより千夜は?」
「今は眠ってる。起きて落ち着いてから、刑事さんが話を聞きに行くらしいけど」
青空に振ると、簡潔に答えてくれた。そんな青空の顔も、俺達以上にひどい。
「ひどいってもんじゃないな……おまえも入院したほうがいいんじゃないか?」
顔中に打ち身の痕があって、ガーゼと絆創膏だらけ。
「僕は何ともないよ。そりゃ骨にヒビが入る手前まで行ってる所もあるけど、松葉杖無しでも歩けるもの。でも人生でこんなに大怪我したのは初めてかも」
強がって笑ってみせるけど、俺がみょーと殴り合った時よりひどい気がする。
「青空が千夜を助けてくれたん。名誉の傷ってか。いやマジで青空が助けてくんねーと、正直もっとやべーことになってたかもしれねーからな……」
笑って言った後、神妙な顔を見せるイッコー。
「とにかく、黄昏も来たし中に入ろう。みょーさん達は遅れるって」
「キュウは?来てないのか?」
「もう来てる。無理に頼んで眠っている千夜の顔を見せて貰いに行ったけど……」
青空の言葉の歯切れが悪い。
「顔面蒼白で大泣きで。病院中に伝わるくらい泣きわめいてたぜ。今は病室の前におやっさんといるわ。……正直、いたたまれなくなったから病院の前に逃げ出したんよ」
続けてイッコーが青空の言葉を代弁した。千夜の事を一番好いているのはキュウだから当然だろう。同姓だし、長い間一緒にいた俺達より情が深いのかもしれない。
「バンドのみんなも集まった事だし、一度集まって頭から順に説明するよ。他の人には後でそれぞれ話す事にするから」
青空の後ろを黙ってついて行く。病室に辿り着くまで、俺達3人は空気の重さに何も言葉を発せないでいた。青空なんて何かに取り憑かれたような暗さだ。
「おお、みんな来たのか」
病室前に到着すると、『N.O』のおやっさんとおとなしめの服装のキュウがいた。
「たそっ……たそーっ!!」
俺の顔を見つけるなり、目尻に涙を浮かべ抱きついて来る。いつもならうざったく避けてしまうのに、今日の俺はそんな冗談をする気分にすらなれなかった。
「おねーさまが、おねーさまがぁ……!」
「そんなに泣くな。何も悲しいのはおまえ一人じゃないさ」
胸の中で泣きじゃくるキュウの頭を優しく撫でてやる。それでも涙が止まらずに顔を埋めてくるので、仕方なくそのままにしておいてみんなと話をする事にした。
「千夜の家族は?」
「母親が病室の中で付き添ってる。父親の方は海外出張中だから、帰国に時間がかかるらしいよ。親戚の人達はまだ来てないみたい」
そういや千夜の父親は音楽家で世界を回っているとか、前に家に行った時に話してた。
「一人っ子なんだったか?」
「うん。学校の先生達にも連絡はしたみたいだけど、事が事だけに学校の友人達には伝えてないって。とりあえず、あっちへ行こうか」
青空が廊下の突き当たりのロビーを指差すので、俺達は全員そちらへ移動した。肩を落とすキュウに手を回してやり、なだめてやる。どうしてこの行為が愁にできなかったんだろうと疑問に思ったけど、深く考えるのは止めにした。
「キュウ、大丈夫?これから改めて事の詳細を一通り説明するけど、また聞くのは辛いだろうから一階のホールで休んできてもいいよ」
「いい……ここにいる。一人になった方がつらいもん」
今にも泣きべそをかきながら青空の語りかけに答えるキュウ。目は真っ赤で、止まらない涙で目元の化粧はすっかり崩れていた。
「じゃあ、話すよ。昨日ラバーズで解散して、僕がキュウを自宅に送る時に千夜と水海駅前で別れた後の事なんだ」
一つ咳をつき、青空が語り出す。俺達はロビーの長椅子に腰かけ、耳を傾けていた。
「てっきり僕はそのまま、終電に乗って帰って行ったんだと思ってた。でも、間に合わなかったのか気が向いたのか、おやっさんのスタジオへ足を運んだんだ」
「千夜が来た時には、日付はとっくに変わっとったよ。まさか本当に遊びに来るとは思わんかったけどな。……ワシが前に誘ってなかったら、こんなことには……」
「おやっさんのせいじゃないよ。前にスタジオに入った時に声をかけてくれたから、僕も二人を助ける事ができたんだし」
背中を丸め、やつれた顔で目尻を覆うおやっさんを青空が慰める。おやっさんも連中にやられたのか、青空と同じく顔や手に治療の跡があった。
「片方のスタジオは空いておったから、しばし談笑した後に千夜はそっちへ入った。まだ聞いてないからわからんが、きっと受験でしばらくスティックを握れないから、想い出にドラムを叩きに来たんじゃろうな。その数分後じゃよ、あいつらがやって来たのは」
「あいつらって……あの時の連中だよな?」
俺が二人に尋ねると、こちらを向いて頷いた。
「千夜と取っ組み合いになったやつがいたってよ。全員の顔は覚えてなくても、他にも数人いたらしいぜ」
「ただ、そこにあの背の高いジゴって男はいなかった。僕がスタジオへ入った時にはね」
「ワシも、青空やイッコーが言うような背丈と風貌の男は見かけんかった。そうは言っても、あいつらが押し寄せてきた時に休憩室に縛られて閉じこめられたから、その後はわからん……」
あの中でリーダーらしき男がジゴだったのは覚えてる。もしかしてあいつは関わってないのか?千夜の過去に関して何か知っているような素振りだったけど。
「おやっさんが店番してた時に、連中が入って来たんだな?」
「スキンヘッドの男を先頭に、6人がやって来た。横暴な態度で千夜の外見をした女がどちらのスタジオに入ったのか聞いてきたから、断ったら有無を言わさず殴られたよ」
ため息をついて、おやっさんは左の大きなガーゼの上をさする。
「その後スタジオに入った連中が、もう片方のスタジオに入っていたバンドマン達も追い出して、中にいる千夜に喧嘩を売りに行ったんじゃ。すぐさまワシは助けを求めようと警察に連絡を入れようと思ったが、奴らに見つかって意識を失う手前まで殴られ、縛られて休憩室に放りこまれてしもうた。……その後は、わからん」
話を聞いているだけでぞっとなった。いくら何でも千夜一人で、男6人に立ち向かえるわけがない。その後千夜の身に何が起こったのかは想像したくもなかった。
「そこを僕がスタジオに立ち寄った時に見つけて、おやっさんを解いたんだ。すぐ助けを呼びに行って貰って、僕は中にいる千夜を助けに入った。勿論、僕一人でどうにかなるはずもなくて……ボコボコにされちゃったけど。でも、無事おやっさんが助けを呼んで戻って来たから、奴等も蜘蛛の子を散らしたように逃げ出したよ」
「で、そいつらは?捕まったのか?」
「まだだよ。今、警察の人達が動いてる。被害者の千夜も救出されてから、病院に運ばれて以来眠ったままだし。ただ、犯人グループは目星がついているのでそれほど時間はかからないと思う」
いらいらさせられる青空の返答だけど、仕方ない。俺も今すぐに奴等を探しに行って、ぶちのめしてやりたい。そうする事で今の沈んだ心も多少晴れるような気がした。
「くそっ、あいつら……!ぶちのめしてやっから、覚悟しとけよ」
「ちょっと、イッコーどこ行くの!?まさか仕返しに行くつもり?」
しびれを切らしたイッコーが、血気盛んに病院を出て行こうとする。青空とのやり取りの横で、キュウは目を閉じ辛い表情を見せていた。
「決まってんだろ、あいつらが出没してるハードコアのハコを回れば手がかりは掴めるんだ、サツなんて待ってられっか」
「これ以上騒ぎを大きくしてどうするの!それに、奴等のこう言う件は千夜だけじゃないらしいって警察が言ってた」
「どういうこった?」
イッコーの怪訝な声に、青空が息を整え答える。
「つまり……裏で流出してるそう言う系統で、確証が掴めずに捕まえられなかったのが数件あるって事みたい。ただ、今回みたいに被害者が救出されてと言う事は無かったらしいから、ちゃんと警察も動けるって。言った通り、幸い相手の特定ができてるから、捕まえるのにも大して時間はかからないだろうって」
「む……なら、しゃーねーか。おれも協力してやりてーのによ」
「それなら単独で動くより、刑事さんに話をつけた方がいいと思う。実際イッコーのバンド仲間の交友関係がこんな時には役に立つと思うし」
青空の提案にイッコーは渋々頷いた。本当なら今すぐにでも飛び出して街中をかけずり回って、連中を一人残らずぶちのめしたいに決まってる。まだイッコーには冷静に判断できてるようだった。これもバンドで培ったものかと思うと、皮肉に思える。
「そういや連中は何人なんだ?6人だけじゃないんだろ?」
「正確な人数は、僕やおやっさんにもわからない。千夜も、覚えているかどうか……ただ、3グループで20人くらい、みたいな事は奴等の一人が話してた」
その数を聞いて、背筋が凍る。一体どれだけの時間、千夜は嬲られ続けていたんだ?
「なんでっ……なんでおねーさまがそんなヒドい目にあわなけりゃならないのよーっ!!そんなたくさんの相手に恨まれるようなコトした!?」
これまでおとなしくしていたキュウが、突然大声で詰め寄って来る。俺達はお互いに顔を見合わせ、渋い表情を見せて押し黙った。
千夜の事を快く思っていない人間は、水海界隈のバンドマンでは結構いるかも知れない。たくさんのバンドをかけ持ちして、多くの相手とぶつかって来たから。しかしそれらがこんな凶行に及ぶなんて、そんな真似は絶対しないだろう。
「普通に考えれば、前に喧嘩売った連中の仲間だろ。興味本位で参加しただけの奴もいるかもしれない。あんな外見してるけど、千夜は相当いい女の部類だろうし」
「つっても、まさか集団で襲われるだなんてなー。いまだに信じられねーよ」
イッコーがため息をつき、俺の横に腰を下ろす。きっとみんな同じ気持ちだろう。
「僕がもっと早く助けに行けたら、こんな酷い目に遭わなかったかもしれないのに……!」
青空は教会で懺悔する罪人のような面持ちで組んだ両手を強く握りしめる。
「そういや、青空はキュウを送って行ったって言ったよな?おやっさんのスタジオへ行ったのは、その後か?」
「……直後じゃないよ。キュウを送った後、もう終電を逃してたから始発が出るまで家で眠らせて貰った。疲れで意識を失ってしまったんだ。その間に、千夜が酷い目に遭っているなんて事も知らずに……」
今にも泣きそうな顔で青空は語る。その頃の俺は、愁を裏切って家でとてつもない絶望を味わっていた頃か。その場をすぐに逃げ出して、おやっさんのスタジオへ行っていたら助けられたのか?なんてありえない事を思ってしまい、馬鹿らしくなった。
「キュウの家を出て、始発で帰る前におやっさんのスタジオへ寄ってみたんだ。朝の5時過ぎかな。本当は、ただ気分を紛らす為のつもりだったんだけど」
天井に視線を泳がせる青空。きっと、一人でいると溢歌の事を考えてしまうからだろう。
「何にしろ、青空が来てくれて助かったよ。あのままだと、千夜も奴らに連れ去られていたかもしれん。悪運なのかよくわからんが、最悪の事態だけは免れたんじゃからな」
おやっさんの言葉に青空は口元をほんの少しだけ緩ませる。確かに悪運と思うしかない。
「ったく、何も知らないでラバーズで酒飲んで他のバンドのやつらとだべってた自分が情けねーぜ……自分のせいじゃねーってわかっててもよ、ちっとも割り切れんわ」
苦々しく吐き捨てるイッコー。涙を指で何度も拭っているキュウもきっと同じ気持ちだろう。怒りの矛先が犯人グループだけでなく、自分達にも向いているのがきつかった。
「んで、どーするよこれから?バンドがどうとかゆーレベルじゃねーぞ」
そんな事を言われても、全く何も考えられない。全員が眉をひそめる。
「その事については、夕方か夜にでもどこかに集まって話そう。僕達がずっとここに居ても、どうにもならないし。これから一度僕も家に帰って、また来ようと思う。キュウも家に帰って、少し休んで来た方がいいよ。イッコーも、店の支度があるんでしょ?」
「あ、ああ……こんなんじゃ仕事になんねーけどな。店開ける準備だけはやってくるわ」
疲れた体に鞭打って、イッコーが立ち上がって背伸びをした。キュウは迷ったものの、帰り道が同じなのでイッコーとおやっさんについて行く事になった。俺はと言うと……どうしようか。
「俺はここにいるよ。家に帰って戻って来るだけの気力がない。愁も後で来るから」
先に帰る3人に手を振り、ロビーの長椅子に全身を投げ出す。目を閉じればすぐにでも夢の中に連れて行かれそうだった。
「何か飲む?」
目を開けると、青空が俺を真上から覗きこんでいた。適当でいいと頼むと、そばの自販機で買った紙パックのカフェオレを俺に渡してくれる。上体を起こし、座り直した。
「きつそうだね」
「俺の事はいいよ。それより大変な事になっちまったな」
紙パックにストローを差しこんで飲む。味よりも喉を通る冷たさが心地よかった。そう言えば俺も今日は何も食っていない。食欲の湧く状態でもないせいか。
「本当にね。本人が一番きついんだろうけど……いや、これは後で話そう」
「どうかしたのか?」
何かを話しかけてためらう青空に声をかけると、頭を軽く振った。
「うん……千夜の事で色々とね。状況が落ち着いてから話す事にするよ」
「わかった。俺も正直なところ、千夜に手が回らないくらい大変なだからな」
愁の顔を思い浮かべるだけで死にたくなってくる。吐くため息がこんなに重いなんて。
「そうなんだ。何かあったら力になるよ。今はバンドも動かせないけどね」
溢歌の事を何か聞いてくるかと思ったら、青空の頭の中は目の前の出来事で一杯になってるようだ。そのまましばらく二人共黙ってしまったので、俺から先に切り出した。
「あの……溢歌の事は?」
青空は一瞬目を丸くしてから、微笑んで肩をすくめる。
「言ったでしょ、黄昏に任すって。――溢歌はもう、大丈夫だよ。あの子の気持ちを裏切らない限り、昨日までの溢歌に戻る事は無いよ。そりゃ、気にはなるけど――ごめん、今は本当に千夜の事しか考えられないんだ」
気の滅入った青空の表情が暗い。助けに入った本人だから、暴行を受けた千夜の姿を目の当たりにしてるはずで、俺なんかよりも受けたショックは遙かに大きいだろう。
「――乱暴された千夜を介抱した時、抱き締めたその身体がとても小さかったんだ。あんな小さい身体で、大勢の男達に乱暴を受けていたと思うと――」
張り裂けそうな想いを胸に、目を閉じて眉間に皺を寄せる。俺はふと、昨日介抱してやった溢歌の小さい身体を思い返した。守ってやらなきゃと思う気持ち。きっと青空も、似た思いをその時に感じたに違いない。
「面会できるようになるまでは、僕も何もできないけどね。とにかく今は、どうやったら千夜を助ける事ができるのか、それしか頭に無いんだ。だから……溢歌に会ったら、しばらくは会えないかも知れないって言っておいて」
さばさばと話すと、青空は手元のいちごオレを飲み干す。未練がないと言えば嘘になるだろう。千夜と溢歌を天秤にかけたら、今は千夜を優先した、それだけの事だ。俺がいるから任せられるのもあるだろうけど、未練がましい俺より十分しっかりしてる。
空になった紙パックをごみ箱に捨てて、青空はいたたまれない表情で天を仰ぐ。
「本当に駄目だな僕は……。溢歌の事をずっと見続けてあげるって約束したのに、また守れないんだから。彼女の気持ちを本当に裏切り続けてるのは、僕だよね」
その掠れそうな言葉の中に、どれだけの想いが篭められているだろう。溢れてくる涙を零さないように、肩を震わせたまま天井を見上げていた。
「そんなに自分を責めるなよ。今の溢歌なら、きっとわかってくれるさ」
「うん……自分の力の無さが、とても悔しいよ……」
優しい言葉をかけると、青空は目を腕で覆って悔し涙を流した。俺も一緒に泣きたいのに、涙一つ出てこない。涙を流す資格すらないって、心のどこかで思っているのか。
立ち尽くす青空の嗚咽を、俺は何も言わず受け止めていた。