059.会いに来てよ
「はぁ〜……なんでまた、こんなコトになっちまうのかねぇ」
見舞いに来たみょーがため息混じりに呟いた。みょー自身、千夜とはつき合いがないので和美さんのつき添いでやって来ていた。俺達はロビーで話していて、時折千夜の部屋には学校の先生やら女刑事やらが出入りしてる。
窓の外はすっかり太陽が沈んでいた。この季節だと夕方の時間も短い。青空が帰った後、俺はロビーでしばらく意識を失っていたようで、おかげで眠気は幾分取れた。
「和美さん、大丈夫ですか?」
「え、ええ……」
俺が声をかけると、長椅子に腰かけてる沈痛な表情の和美さんが力のない声で答える。自分の後輩が酷い目に遭うなんて想像もつかなかったろう。事件が事件だけに、男性と女性では受け取り方も違うのかもしれない。
「千夜が目を覚ましたらしいよ」
部屋の前から戻って来た青空が朗報を告げる。それを聞いて和美さんは胸を撫で下ろした。イッコーは警察に知ってる限りの情報提供をしに行ってるので、ここにはいない。キュウは少し来るのが遅れると連絡があった。
「でも、まだ面会はできないって。今日のところは顔を合わせられないみたいだね。しばらくして千夜へ刑事さんが色々話を聞きに行くと思うけど、奴等を捕まえる為には仕方無いよね。本当ならそっとしておきたいけど……」
相手の人数と顔を全員知っているのは被害を受けた千夜だけなので、心苦しいけど止むを得ない。
「しっかし水海も物騒になったなー、知ってる人間が被害に遭うなんてよ」
「今回の件は逆恨みだからね。昔は不良グループがいたらしいけど、今はもういないってキュウが言ってたっけ。連中も別の街を根城にしてるから、よっぽどの事が無い限り……」
青空の言葉で、やはり千夜が襲われたのはよっぽどの事だと痛感する。この後、イッコーと一緒に奴等の活動してるライヴハウスに聞き出しに行かないかと誘われてるけど、どうするか迷っていた。怖いわけじゃなくて、溢歌や愁の事があるから。
「千夜の母親の話だと、身体に受けた傷が治るまではここに入院して、それから自宅方面の病院へ転院するって。でも、心の傷は……」
みんな一斉に意気消沈する。こんな一生モノの傷、一体いつ回復するかもわからない。もちろん『Days』の今後の目処なんて立つはずもなくて、間近に控えたあいつの大学受験すらどうなるのか。タイミングがいいのか悪いのか、とにかく俺達は動く事すらできなくなった。
「心の傷か……」
愁の事を思い出して呟く。これから俺は愁にどんな顔で接しればいいんだろう?きっともう俺の力じゃ愁を助けてやる事はできない。バンドも休止状態になってしまったんだから、さっさと縁を切ればいいだなんて酷い考えも浮かんだけど、背中から刺されそうだ。
いや、刺されたところで自業自得だろう。その時は運命と思って諦める。いっその事、暗闇に引きずりこまれるより愁に終止符を打ってもらった方が幸せとさえ思えてくる。
「俺達であいつを助けてやれる事って、できるのかな?」
ふと、そんな疑問が頭に浮かんだ。みんなは難しい顔で見合わせる。
「それは……判らないよ。もう一生、男の人を敵として見るかも知れない。でも、千夜ももう卒業だし、学校の友人に助けて貰う機会は少ないかもね。そう考えると、千夜を支える事ができるのは僕達しかいないなんて事になるかも知れない」
「千夜の家族は――そっか、母親と二人暮らしなんだったよな」
あいつはあいつで、なかなか複雑な家庭環境にあるらしい。第一バンドのせいで夜遅く帰る娘をそのままにしておくのは、よっぽどの放任主義か仲が険悪かのどちらかだろう。
「僕とおやっさんはその人と話したけど――あんまり他人の事は悪く言いたくはないんだけど……自分の娘の事をもっと大事にしてやれないのかなって、思った」
青空の呟きで場がますます重くなる。父親が単身赴任なところもあるせいか。
「和美、あの子って同じ部活の後輩なんだったよな?ダチとかいねーん?」
「さあ……どうかしら。籍は置いていたけど、忙しいのかあまり顔を出す事はなかったわ。ただ本当に天才肌の人というか――みんなと合わせる間隔が空いていても、ぴったり合わせられる凄い素質を持っていた子だったわ。だからみんな頼りにはしてたけれど……仲のいい子は少なかったかも。この前バンドをやっているって聞いたから、納得できたわ」
みょーの振りに和美さんはぽつぽつと昔を思い出しながら答える。そんな状態じゃ部活も長続きしないだろう。あいつ自身友達が少ないのは自覚してるのかもしれない。
「クラスメートの人には話していないのよね?今回の事」
「ええ、みんな受験で大変な時期だからって、母親が先生に言ってました。でもせめて学校の友人には話しておいた方が……ううん、これ以上考えるのはよそう」
一人納得して話題を打ち切る青空。こんなに他人に喰ってかかるのも珍しい。それだけ千夜の事を大切に思ってるのが伝わってくる。
「私が連絡を取った方がいいのかしら?後輩に宛てはあるけれど」
「や、それやると心ねーヤツが言いふらして学校中騒ぎになるかもしれねー」
「……そうね、難しい問題ね……」
頭を抱える和美さん。青空の言う通り、あいつを救えるのは本当に俺達だけなのかも。
とは言うものの、その中に俺と愁は含まれないだろう。青空が今は溢歌の事を考えられないように、俺も千夜の事まで面倒を見ている余力はない。第一溢歌との関係もこれからどうなっていくのかすらわからないのに。
「ちょっと俺、トイレ」
全身で息を吐き、席を立ってその場を離れた。この重苦しい雰囲気の中にずっと浸かっていたら、俺の身が保たない。そうは言っても後で愁が来る時の事を考えると、ますます気が滅入ってくるばかりだ。
トイレへ行った後、一旦外の空気を吸いに病院の外へ出る。冬の夜風はとても冷たく、身も心も凍えてしまいそうな思いがする。愁と会話するのも後回しにしたいけれど、せめて病院には来てくれないといけないので携帯電話で俺からかける。自分から電話をする事がほとんどないので、かける操作すら手間取った。
案の定と言うか、出ない。電源は切れてないのか留守録に繋がった。そこに手短に伝言を残して病院の中へ引き上げる。
青空達の元へ戻りながら、病院独特の空気にあてられて自然と背中が丸くなる。清潔な内観と妙な静けさとどこか重い空気。人の生き死にが関わってる場所だから当然か。
「あ、黄昏戻って来たよ」
ロビーへ着くと、青空の声に見慣れた栗色の髪をした人影が振り返る。そこには涙を浮かべて目尻を赤く腫らした愁がいた。俺の顔を見て、固まってる。
どうやら入れ違いになってたらしく、心の準備のできてない俺は激しく動揺した。
「…………」
何か言おうとするけど、言葉が出ない。
「良かった。今、愁ちゃんに千夜の事を説明してた所なんだ。顔を合わせるのは今日は無理だから、数日後に黄昏か他の誰かと一緒にまた来て欲しいんだけど……?」
青空が俺の顔色を窺って説明が止まる。俺と愁の間に流れてる異様な空気に、周りのみんなも怪訝そうな表情を浮かべていた。
「どーしたん?」
「……バカ……」
俯いたまま肩を奮わせてる愁にイッコーが声をかけると、怒りに震えた声を絞り出して激しく俺を睨んだ。その殺意の篭もった目線に動きを止められた俺に大股で歩み寄って来ると、手に提げた愛用の小さなカバンを勢いよく俺の顔面に投げつける。
「たその、バカーっ!!たそなんて、死んじゃえ!!」
激しい痛みでのけぞって顔を押さえている俺に、愁は廊下中に響き渡る声で酷い言葉を投げつけると、俺の横を全速力ですり抜けて行った。
「ちょっと、おい愁!」
よろめきながら振り返ると、愁は呼び止めるみょーの声に振り返る事もなく曲がり角の向こうへ消えた。
「……っー……」
痺れるような痛みの鼻面を押さえると、手にべったりと鼻血がついていた。
「だ、大丈夫!?黄昏!」
突然の光景に立ち尽くしていた青空が、膝を崩す俺の元へワンテンポ遅れて駆け寄る。今の騒ぎを聞きつけた病院の女性看護師が近くの部屋から出て来て、俺達の所へやって来た。大声を出した事を注意されるも、俺が鼻血を出してるのを見て応急手当をしようと催促する。そのまま俺は青空と一緒に近場の診察室へ連れて行かれた。
「大丈夫?鞄が固くなくて良かったね。凄い音したから鼻が折れたかと思ったよ」
治療を終えて隣にいた青空が胸を撫で下ろす。ホント、俺も折れたかと思った。かつてみょーに殴られた時より数倍も痛く思えるのは、心の痛みもあるからだろうか。
「余計な出費になっちまったな」
診察室を出る時に青空に笑ってみせると、向こうは真剣な表情で俺の顔を見ていた。
「どうしたの、黄昏?愁ちゃんに何かしたの?」
そう言ってから、青空もその理由に気付いたようでまずい顔を浮かべた。
「……もしかして、僕のせいかな?黄昏に溢歌の事を頼んだりしたから」
「違うって。俺と愁の問題だよ。溢歌は関係ない」
すまなそうな表情の青空に強く言い切って答える。本当にそうなのかは置いといて、青空にこれ以上余計な負担をさせるわけにもいかない。廊下に出ると、部屋の外で待っていたイッコー達が駆け寄って来た。
「たそ、だいじょーぶか?顔面へこんだかと思ったぜ」
「大丈夫、これくらい、どうって事ない。そういやあいつのカバンは?」
「ここに。私が持ってますよ」
周囲を見回すと和美さんが愁のカバンを俺に見せてくれた。あいつ、携帯電話もカバンに入れっぱなしなんじゃないか。とりあえずカバンは和美さんに持って帰ってもらおう。
「たそ、ちょっといーか?俺と和美の3人で話があるんだけど」
「え?あ、ああ……」
怖い顔をしたみょーに問われて思わず背筋が震える。ここで話したらまた周囲の迷惑になってしまうので、俺達3人は病院の外へ出る事にした。
「なあ、オマエ愁になんかした?」
駐車場前で、みょーが振り返って俺の顔を正面から見る。真剣そのもので、俺は激しく言葉に迷った。普段にはないくらいこんなに気弱で内心焦っているのは、愁の事だからだろう。
「そういや愁のヤツ昨日ウチに帰ってなかったんだけど、たその家にいたん?」
「ああ……いたよ。千夜の件で俺が病院に来るまで一緒にいた」
目線を逸らしながら正直に答える。
「帰るってメールがあったからてっきりウチに戻ってるものかと思ってたぜ。ま、たそん家にいたんなら安心したわ。で、なんかあったの?」
「……痴話喧嘩だよ。前にもあったし、みょー達には関係ないよ」
突き刺さるような目線に、適当にはぐらかす。本当の事を言ってしまえばみょーにタコ殴りにされるのは当然と言える。しばらく黙ったまま俺に疑いの目をかけてたけれど、何も答えずに沈黙を守ってるとやれやれと肩をすくめた。
「ったく、相性悪いんじゃねーの、二人とも。愁がオマエとケンカすっと、家の中でも超不機嫌で無言になるんだわ。和美がなだめるので大変なんだぜ」
「それは……すいません」
素直にみょーの横にいる和美さんに頭を下げる。
「早いトコ仲直りしてくれよ?しかし、愁があんなにブチギれるトコ初めて見たぜオレ」
「俺もだよ。――愁には悪い事したと思ってる」
殴られる手前の愁の顔を思い出すだけで胸が痛い。あんなに誰かに殺意のある目線を注がれたのは生まれて初めてだ。愛と憎悪は紙一重と言うけど、まさに俺への愛情がそのまま憎悪に転化したような、そんな目つきだった。
「死んじゃえ、か……。簡単な言葉だけど、正直胸が抉られたように痛い」
「おいおい、ダイジョーブかよ?なんでオレがたその心配しねーといけないんだと思うけど、今のオマエ身投げしそうなほどヒドい顔してるぜ」
「それは……そうかも。千夜の事もあるから、ダブルパンチだ」
笑って冗談を言う気力すらない。このまま家に一人でいると実行してしまいそうな自分がいる。
「今日はカズくんと一緒にいたらどうです?辛いんじゃないですか?」
「いや……大丈夫。少し夜風に当たっていればよくなります」
心配そうに俺を見つめている和美さんに小さく会釈してみせる。後で溢歌の所へ行けば、今日のところは何とかしのげそうな気がした。
「あいつは俺の事と千夜の事で頭が混乱してると思うんで……和美さんとみょーで介抱してやって下さい。みょー、悪いけど俺が心から謝っておいたって、伝えてくれないか?自分でもひどく都合のいい相談だってわかってるけどさ」
「自分で言ったほうが……って、そんな険相じゃなかったもんな、愁のヤツ。あんだけ怒るんだから、しばらくは家に引きこもってっと思うけど――ま、伝えとくわ。せめて正月までには仲直りしとけよ?ケンカしたまま年越しってすげーミジメな思いするぜ」
みょーの忠告が耳に痛い。隣で和美さんが困った顔を浮かべているのは、みょーの経験談だからか。守れそうな気はしないけれど、胸に留めておく事にした。
「話はこんだけ。何かあったら、オレにも頼れよ?アドバイスくらいしてやっから」
「ああ……頼りないけど、今はワラにもすがりたい思いなんだ」
「そんな減らず口叩けるようならダイジョーブそうだな」
笑って俺の曲がった背中を何度も叩く。今はこいつの笑顔ですら、十分癒しになる。
「じゃあ、俺……帰る。愁に殴られたのあるからかな、ひどく疲れたんだ」
「ああ、オレ達もこのまま病院に居ても千夜ちゃんには会えなさそうだから、せーちゃん達に挨拶してから帰るわ。愁の事も看てやらないとって思うと、しんどいけどな」
「悪い。今度埋め合わせは絶対するから。青空達にもよろしく言っといてくれ」
「期待しないで待っておくぜ」
二人とその場で別れて、一足先に俺は帰宅させてもらった。愁に殴られてから、一気に全身に疲れが吹き出たようで家路への道を歩くだけでも辛い。頭の中をからっぽにしようとしても、愁の目線と言葉が胸に突き刺さったまま、何度も脳内でリフレインしてる。
一刻も早く溢歌に会わないと、俺は本当に死んでしまうかもと心の底から思った。
しかしこの寒い中、バイクで溢歌の家へ行けるのか。疲労が濃いので、途中で絶対に事故りそうな気がした。とは言え、自宅で一人野垂れ死にするよりは遙かにマシだ。
マンション前まで帰るのに、物凄く時間がかかったような気がする。帰り道の途中、青空達とバンドの今後について話し合う予定だったのを思い出したけど、引き返す余裕も今誰かと話す気力すら無い。悪いが、また今度にして貰おう。
自分の部屋で一人暗闇と対峙していた時の切羽詰まった状況が笑い飛ばせてしまうほど、俺の心の中はぐしゃぐしゃになっている。何をするのも、何を考えるのも億劫だ。
せめて溢歌の胸の中で眠れれば、幾分落ち着きを取り戻せる気がした。
メットと手袋を取りにエレベーターで最上階に行くと、家の前に人影があった。
「やほー」
「……溢歌」
俺のジャケットを羽織った溢歌が、こっちの顔を見つけて無邪気に手を振る。その姿を見ただけで、安心してその場で膝から崩れ落ちそうになった。よろめきながら近寄ると、そんな俺をおかしいのか笑って眺めている。
「ちょうど来た所だったの。家に入れてくれる?」
「ああ……いいよ。今から溢歌の家に行くところだったんだ。助かったよ」
溢歌の言葉が本当かどうかは置いといて、これ以上バイクに乗らなくてもいい事に心底感謝をしながら家の鍵を開けた。よろめきながら玄関に雪崩れこんで、通路にコートを脱ぎ捨てる。
「おじゃましまーす。あれ、愁ちゃんは?」
玄関前で愁の靴がない事に気付いた溢歌が訊いて来るけど、答えずに台所を抜けて自分の部屋のベッドに飛び込んだ。疲れと眠気が一気に襲いかかって来る。
クリームシチューのいい匂いが鼻をつく。
「ほら、起きて黄昏クン。シチューできたわよ」
「……あれ、俺寝てたのか……?」
眠気で重い頭を振って、瞼を開ける。ベッドの上で横たわる目の前には溢歌の顔があった。どうやら帰って来てから自分の部屋に入って、一瞬で意識を失ったようだ。それだけ現実逃避したがっているのかと思うと、情けなくて苦笑してしまった。
「本当にお疲れみたいね。私の方からやって来て正解だったかも」
俺の顔を覗きこむ溢歌が笑顔を見せる。それだけで俺の心と体は軽くなったような気がした。それと同時に、今の俺が頼りにしているのは溢歌だけなんだと言う事を痛感する。
台所に戻った溢歌の後に続いて、俺もベッドから身を起こす。疲れと眠気はほとんど取れていなかったけど、溢歌がそばにいるのに眠って時間を無駄にするつもりはなかった。緑の蛍光色のデジタル時計を見ると、戻ってきてから一時間も経ってない。
「顔、洗ってらっしゃいな。さっぱりするわよ?」
テーブルの上に料理を並べる溢歌に言われた通り、洗面所へ向かう。そこで鏡に映った俺の顔は、自分でも驚くくらい酷い表情をしていた。鼻のガーゼを外して、お湯で洗う。まだまだ痛むけど死ぬほど気持ちいい。ガーゼを張り直して台所へ戻った。
「料理、作ってくれたのか」
「黄昏クンが寝てる間にね。具材は冷蔵庫の中にあったから買い出しに行かなくて楽だったわ」
「そうか……ありがとな。来ていきなりこんな事してもらって」
「何言ってるの。押しかけたのは私の方よ?すれ違いにならなくて良かったわ」
溢歌の言葉が酷く胸に染み渡る。これまでより笑顔が明るく見えるのは、俺の気のせいだろうか。そんな前向きな溢歌を見てると、思わず目頭が熱くなった。
「あら、そんなに泣くほど嬉しかった?じゃあ私の料理の味でもっと泣いてみせてね」
何気ない冗談でさえ心が安らぐ。俺の目の前にいる溢歌が天使とだぶって見えた。
向かい合わせで席に座って、湯気の出るシチューを頂く。手を合わせる前にまじまじと眺めてると、腹の虫が大きく鳴って溢歌を笑わせた。
「……やばい。涙が出るほど美味い」
まさか口にして本当に涙が出て来るとは思わなかった。シチューの味が愁の作るのより遙かに美味いのはもちろんの事、こうしてまた溢歌の料理を食べられてる幸せが重なって、俺は鼻をぐずりながら胃袋が満タンになるまでひたすら夢中に晩飯にがっついた。
「……二日分が全部無くなるなんて。黄昏クンって、こんなに大食らいだったっけ?」
「胃が空っぽになるほど腹が減ってたんだ。もう食えない。もうー食えない」
「そんなに喜んで貰えるなんて思ってもみなかったわ」
食器を片づける溢歌が心底嬉しそうな笑みを見せる。俺が出かける前までの暗く沈んだ重い家の空気は、溢歌のおかげですっかり吹き飛んでしまっていた。
自分の好きな人がそばにいる。そのパワーがどれだけのものかを肌で感じていた。だからこそ、愁を傷つけた事がどれだけ痛いのかを思い知る事にもなるんだけどな……。
「お昼に起きたら、黄昏クンいないんだもの。ひどいじゃない」
食事が終わって、コップに注いだ野菜ジュースを片手に溢歌が愚痴を漏らす。
「前に俺が起きた時にいなくなってた時があったろ。その仕返し」
「ひっどーい。女の子はもっと優しく扱うものよ?」
笑って言ってみせる溢歌の言葉が胸に痛かった。溢歌を一人置いて帰った事よりも、酷く傷つけてしまった愁の事を思い浮かべて。
「悪い。どうしても帰らなきゃならなかったんだ。こっちに来たのはさっきだったんだ?」
「それは本当よ。お昼に起きて、しばらくぼーっとして……一人でいるのに、あんなにぼけっとしたのは生まれて初めての事だったわ。いつもなら目の前にちらつく悪夢が、どこかぼんやり霞んでいて……お部屋に差し込む冬の日差しが、暖かかった」
目線を落とし、ぽつぽつと溢歌が話す。その顔はどこか安らぎに満ちていて、昨夜俺達が奏でた音楽がちゃんと溢歌の心に届いてる事を実感した。
「そのまま夜までぼーっとしてたのか?」
「私はそんな黄昏クンみたいにお気楽じゃないわよ。お昼ご飯を作って、私のいない間に埃の積もったおじいさんの家を掃除して――それから、お墓参りに行ったわ」
俺の言葉に苦笑した後、溢歌は今日の事を思い返しながら呟く。
「亡くなってから、行くのは二回目だった。最初の一回は、おじいさんがお墓に入った時で……それから今日まで、一度も行かなかったわ。おじいさんは寂しそうにしてたと思うけど、踏ん切りがつかなかったの。だって、私は心のどこかでおじいさんがまた戻って来てくれるかもって信じてたもの」
寂しげな顔の溢歌が、どれだけそのありえない思いにすがっていたかがわかる。きっと祖父が死んだ事を認めてしまうと、自分は生きてられないと感じていたんだろう。
「受け入れる事が……できたのか?」
「……ええ」
俺の顔をまっすぐ見る溢歌。芯の入った潤んだ目と微笑みが、その事を表していた。
「ようやく、別れを言えたわ。そして、私を空から見守っていてって。……きっとおじいさんは、私に幸せに生きて欲しいって思ってたのよ。心を閉ざしていた私を救ってくれたのも、きっとそうなんだわ。でも私は、寝たきりになってそのままいなくなってしまったおじいさんに、裏切られたとばかり思い込んでいたの。そんな訳無いのにね」
溢歌の気持ちが痛いほど伝わって来て、俺は何も言えなくなった。
「おじいさんは亡くなるまでずっと私の心配をしてくれていたわ。もっと早く出会えていたら、私ももっと普通の人間らしく生きられたかも知れない。でもこうして運命の人と出会わせてくれたんだもの。私を引き取ってくれたおじいさんに感謝しなくちゃね」
しんみりした空気を吹き飛ばそうと、俺を茶化してみせる。
「運命の人――そうなのかもな。ただ俺には出会えた事すら当然に思えてしまうけど」
「私もよ。ただ、私の運命の人は黄昏クンと青空クン、二人いるけれどね」
溢歌の言葉に俺は苦笑するしかなかった。
「溢歌は……どうして青空と別れたりしたんだ?」
昨日訊くのを忘れてた事を、改めて問い質す。溢歌は俺の空になったコップに野菜ジュースを注ぎ込んでから、少し考える仕草をした。
「私の事を、ちゃんと見てくれなかったから――違うわね。青空クンは、バンドと私、両方を観ていないといけない人間なのよ。それが私には我慢できなかったの。全身で私を愛してくれないと……許せなかったから。それだけ、私の方に心の余裕が無かったのよ」
「でも、俺もそんなに変わらないと思うけどな。歌と溢歌、どっちを選べって言われても」
そうは言うものの、手元に溢歌が居れば他に何もいらないと思う俺もいる。でも、メロディが俺の中に戻って来た今は天秤にかけるのも難しい。
「それは勿論私を選んで欲しいって言うわ。でも今なら、落ち着いてそれを受け入れる事ができると思うの。二人両方に見捨てられちゃうと、さすがに困っちゃうけれど。私をこの世界に繋ぎ止めているのは、黄昏クンと青空クンの二人なのよ」
「さりげなく重くきつい事を言うな、お前」
俺が溢歌の事を考えず、命を絶つ事があったらきっとすぐ後を追うに違いない。そう考えると、愁を裏切った事実が酷く俺の心にのしかかる。
「青空クンの演奏と、黄昏クンの歌を聴いて、私は救われた気がした。……青空クンは、私を歌で救う為にそっちに没頭したのよ。結果的にそれは正しかった訳だけど――そばにいて、私の事を見てくれているのに見てくれていないのは、ほんの少しの間でもとても辛かったわ。だからしばらく距離を置きましょうって、私が言ったの。そこを黄昏クンに拾われたのよ」
「拾われたって、青空が頼んだんだ」
「そうね。青空クンには心の底から感謝してるわ。――だから、これからどうするか、ここで考えるの。もしかしたら、また黄昏クンを置いて青空クンの元に戻る事になるかも知れない。裏切らないでって相手に言いながら、自分の方から裏切ってしまうかも知れない」
その生き方を、俺が否定する事はできなかった。だって、俺も今までそうやって生きてきたんだから。これまでに何度相手の気持ちを裏切って、傷つけてきたかわからない。
「そんな私でも、黄昏クンはそばに置いてくれる?」
だからこそ、俺は溢歌の事を絶対に裏切りたくないと思った。溢歌の事を、ただまっすぐに見ようと決めたんだ。だから俺は、愁じゃなく溢歌を選んだ。
「当然だろ。と言うか、今は溢歌がそばにいないと俺が本気でやばいんだ」
椅子の背もたれに体を預けて天井を見上げる。こうやって軽口叩けるのも、溢歌がいてくれるからこそだ。
「どうしたの?さっきからずっと気になってたけど、その鼻の傷って」
「ああ、さっき愁にやられた。――でも、これだけじゃないんだ」
こんな傷、千夜の受けた痛みに比べると屁でもない。一つ咳をして、ちゃんと座り直してから打ち明ける。
「……うちのバンドの女ドラマーが昨日の深夜、前に因縁つけられたグループに襲われて……さっきまで、病院に見舞いに行ってた」
予想外の俺の話に、溢歌は目を丸くして驚く。小さく身を震わせ、上目遣いに俺の顔をまじまじと見つめた。
「――犯されたの?」
「ああ、集団でな。幸い犯人グループは捕まえられそうだからいいけど、バンドは空中分解しそうな感じだ。元々昨日でしばらくバンドは休止する予定だったけど、これからどうなるのかは俺にも見当がつかない」
せっかく溢歌の胸に届く歌を唄えたっていうのに、今はその立ち位置さえ失ってしまいそうな状況だ。これからどうするかだなんて、全く考えもできなかった。
「……ほんと、どうして世の中にはそんな屑ばかり存在してるのかしら」
視線を床に落として溢歌が眉をひそめて吐き捨てる。
「クズでも生きてられる世の中なんだろ。前にお前に話したユートピアなんて存在しないんだろうな。そう思い知らされるには簡単な出来事だったよ」
要するに俺は誰かを傷つける人間を許せないって事なんだろう。そんな割に平気で愁を傷つけてしまう俺自身が、一番許せない人間かもしれないけど。
性善説を唱える人間が馬鹿を見るのも、ホントに腹立たしい世界だ。
「身の周りの人間を傷つけられて、寛容になれるほど俺もお人好しじゃないって事だ。溢歌は笑うかもしれないけどな」
自嘲してみせると、溢歌は目を閉じて首を横に振った。
「私はその黄昏クンの純粋さに惹かれているのよ。でも、世の中には殺したいほど憎む相手も存在する。その事は覚えておいた方がいいわ」
強い口調で言う溢歌に、心臓を掴まれた思いがした。溢歌にも、そんな相手が存在するんだろうか。気にはなったけど、聞くつもりはなかった。しかしそう考えると、今の愁は俺の事をそんな対象と見てるんだろうな。
「……怖いな、その考え方」
「小さな頃からそんな連中ばかり相手にしてきたもの、当然よ。黄昏クンの目の前にも、今後そんな人間が現れるかもしれないわ」
正直、考えたくもない事だ。誰かに恨まれるくらいならずっと引き篭もっていたい。
「まあ、俺の事はいいよ。それより青空が問題だ。乱暴されたそいつを助けたのも青空で、今回の件で物凄く自分に責任を負ってる。溢歌、お前にしばらく会えないかも知れないって言ってた。お前の事を見てやれない自分が悔しいって」
青空の言葉を伝えると、溢歌は肩にかかった豊かな髪を払ってため息をついた。まるでそうする事が事前にわかっていたかのように。
「――そう、実に青空クンらしいわ。でも私は大丈夫。だって黄昏クンがいるもの。それに……その乱暴された子には、そばに居る人間がずっと見てくれる人がいた方がいいと思うわ。私にはその子の気持ちが、痛いほどよく分かるもの……」
笑顔が戻っていた溢歌が、こんなにも苦しそうな表情を浮かべるなんて。大泣きしていたキュウや青ざめた顔の和美さんより、千夜の痛みを理解しているように思えた。その理由は、まだ訊く時じゃない。溢歌が自分から聞かせてくれるまで待つ事にする。
「だから溢歌は、俺のそばにいればいい。いや、いてくれないと困るんだ」
身を乗り出して切羽詰まった声になっている自分がおかしかった。今の俺にとって溢歌は太陽みたいな存在だ。そばにいないと、俺自身が消えてしまう。
「愁ちゃんを怒らせてしまったから?」
「……ああ。この世の終わりみたいな顔をされた」
「……そう。私は救われたけど、あの子は絶望の淵に叩き落とされたのね」
今日一番きつい言葉を投げつけられて、俺はテーブルの上に力なく突っ伏した。自分の犯した罪を誰かに真正面から口にされるとこんなにきつい事はない。他人の痛みに鈍感だと思ってた俺がこんなに苦しんでるなんて、昔の自分からすると考えられない。
「恋愛って、難しいな」
「黄昏クンが、一人の相手に絞ればいいだけの話よ」
「人の事言えないだろ」
テーブルに横たわったままの俺の呟きにきっぱり答える溢歌につい笑ってしまう。
「で、どうするの?黄昏クンは」
ストレートな疑問を投げつけられて、俺は考えを巡らせた。
「わからない……」
5分弱の無言の末、悩んだ末に出てきた言葉がこれと言うのも非常に情けない。こんな状況の対処の仕方なんてわかりっこない。どう転んでも、愁の傷を癒す事はできないように思えた。それこそ溢歌を裏切らない限り。
「どうすればいいと思う?」
「私に聞かないでよ」
助け船が欲しくて、顔を上げて訪ねると溢歌は他人事のように突っぱねる。恋敵の相手の事なんて考える気にもなれないんだろう。当然の話だ。
テーブルに両腕をついて上体を起こし、大きく息を吐く。コップに入った野菜ジュースを一気飲みすると、言葉にならない大声がゲップと共に漏れた。
「……とりあえず、寝ていいか?来てもらったばかりで悪いんだけど、俺はもう寝たい……こんなに現実に嫌気が差したのは、初めてだ」
「私の気持ちが解った?」
「本当ならわかりたくもなかったけどな。もう何も起こらないで欲しいよ」
俺の切なる願いは神様に聞き届けられるだろうか。今の俺に似た気持ちをずっと胸に抱えて暮らしてきたんだとすれば、溢歌は相当心が強い。自分で生み出した暗闇なんて笑えてしまうくらい、現実の恐ろしさを身を持って知った。
でも、一人で悩んでるより悩みを誰かに聞いてもらえたのは良かった。問題は全く解決してないけど、心の負担はほんの少しだけ減った。胸の中にわだかまりをぶちまけられただけで、明日も生きて行けると思った。
疲弊しきった体に鞭打って自分の部屋に向かおうとすると、溢歌が呼び止める。
「寝る前にちゃんと歯を磨くのよ」
「お前は変なところで律儀だよな」
とは言え、料理をわざわざ作ってもらったんだから素直に従う。
「シチュー、うまかったよ。ありがとな」
「どういたしまして」
俺の心からの感謝に溢歌はスカートの両裾を摘んで、丁寧におじぎをした。
歯を磨いて、用を済ませて、自分の部屋のベッドに飛び込む。食後の食器を水につけた溢歌がすぐに戻って来て、俺の顔の間近に腰かけた。
「ひざまくら、頼めるか?」
「いいけど、寝たら私も横で寝るわよ」
「ああ、夢の中まででいい」
もっと言葉を交わしていたい気持ちではあっても、俺の心と体はすでに限界に達していた。ベッドの上で正座して貰った溢歌の膝に頭を預ける。優しく頭を撫でてくれる溢歌に、今はもういない母親の影がだぶついた。
「明日は幸せな日が訪れてくれ……」
スカートの中に顔を埋めて、呻き声のように漏らすと俺は目を閉じた。