→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第3巻

   060.帰る場所

 疲れている時ほど目が冴えるとよく言ったもので、あれだけ疲労が濃いのに眠った気がちっともしないまま、真っ暗闇の中で目を覚ました。
 閉じられたカーテンの向こうもまだ暗く、何も見えない。夜目が慣れてくるまで瞬きもしないで目を開けていると、隣で溢歌が寝息を立てている事に気付いた。
 どうやら勝手に愁のパジャマを借りてるみたいだ。あいつが泊まる時のために置いていったものが部屋にいくつかある。気が引けるけど、溢歌にそのまま使わせよう。
 寝ている間に布団をかけられていても、肌寒い。喉が痛む感じがするのは、風邪と言うよりまだライヴの疲労が残ってるからだろう。
 溢歌も寒いだろうから、一度布団の外に出て床に転がるエアコンのリモコンを手にして暖房を入れた。
 室内にエアコンの準備音が静かに伝わる中、俺はいつも暗闇の中で眺めていた部屋の壁を眺める。そこには以前、俺が自分自身で作り出したものが存在していた。
 今は暗闇に手招きされる事もない。それなのに心の中は絶望で覆い尽くされてる。これまでとは違う意味で、朝が来なければいいのにと強く願った。
 時を巻き戻したいとは思わないけど、永遠に時が止まってくれればいいのに。そうすれば今の問題に心を痛める事もない。
 愁に殴られた顔面は触るとかなり痛んだ。完治するのに一週間ほどかかると言っていたので、正月まではこのままだ。クリスマスの後、愁といろいろしてた約束も全てパーになってしまった。その代わり、溢歌と一緒にいる時間を得られた。
 心の底から喜ぶべき事なのに、嬉しさがこみ上げてこない。失ったものの大きさを噛みしめて、自分の犯した罪に苛まれている。
 俺から連絡を取っても愁が出るわけないだろうし、このままあいつとの関係も霧散してしまうのかな。時間が解決してくれるとも思えない。大切な友達のキュウが手助けしてくれるとも考えにくい。とにかく俺があいつにしてやれる事は何も思い浮かばなかった。
 手を取った溢歌を捨てて再び愁とヨリを戻す、なんて選択肢は万に一つもない。それだけははっきりと言える。だからこそ、愁との関係に未来が全く見えない。
「八方塞がりだな」
 小声で独り言を呟いて、布団の中に戻った。溢歌は俺が起きてる事にも気付かないでぐっすり眠ってる。安らかな寝息を隣で聞いているだけで、とても安心できた。
 相変わらず身体は重い。どうも頭がハイになってるようで、目を閉じても眠れない。何も考えないでいたらすぐにスイッチもOFFになるとわかってても、目の前に愁のいろんな顔がちらついて仕方なかった。
 とにかく無理矢理二度寝して、その後に愁に電話を入れよう。何を喋っていいかなんて全く思いつかなくても。どう言い訳しても余計に相手を傷つけるだけにしかならない気もする。それでも何も言わないよりいいんじゃないか。
 多分一番の策は二度と愁と会わない事だと思う。昔の俺ならそうやって簡単に仲を切り捨てられたけど、愁相手にそんな事ができるはずもなかった。
 だってあいつが俺の事をどれだけ強く想ってくれてるか、痛いほどよくわかってるから。
 毛布を頭の上から被って寝ようとしても、頭の中に愁の事ばかり浮かんできてどうにもならない。それでも心身共に疲弊しているからか、夢の中へ誘われる。とは言えそこでも愁との思い出ばかり脳内再生されるために、悪夢にうなされるような感じがした。本当なら、幸せなはずの甘酸っぱい記憶なのに。
 いい加減耐えられなくなってきて目を開けたら、部屋のカーテンが開け放たれていて太陽の光が室内に射し込んでいた。間を置いて、寝転ぶ俺を溢歌が至近距離で覗きこむ。
「起きた?」
「……おはよう」
 どもりながら挨拶をして、上体を起こす。台所から微かに昨晩食べたシチューの匂いがしていた。溢歌が指で食べるかどうか促すので、腹に手を当ててやんわりと首を振った。昨日満タンになるまで食べたせいか、まだ全部消化し切れてない。
 日光の角度からすると正午前後か。起きたばかりとはいえ、妙に頭がぼうっとする。ライヴが終わって緊張感から解放されたのと、愁の事をなるべく考えないように自然と頭がそう働いてるんだろう。とりあえず顔を洗いに行って、眠気を覚ました。
 部屋に戻ると、溢歌がベッドのシーツを畳んでいた。掛け布団もベランダに干そうとして、重そうなので手伝う。そう言えば愁にはここまでやって貰わなかったっけ。
「ずいぶん布団もぺったんこだから、打ち直しでもした方がいいわよ」
「うちはベッドだからな。マットレスも干したほうがいいか」
 こっちに引っ越してきてから全然手をつけてないのに気付いたので、マットレスも立てかけて日光に当てる事にした。少し部屋がすっきりした気がする。
 座布団を二枚用意して、ベッドに背中を預けて二人で座る。携帯電話を確認すると、青空からの用件が数件入ってた。主に千夜の経過についてで、溢歌の事は話に出なかった。愁からの着信がないのは当然なのに、改めて嫌われたもんだと実感する。
「今日は、何かする?」
 電話を充電器に戻す俺の背中に溢歌が声をかける。隣に戻って、ぼんやりと天井を見上げた。あまりにも穏やかな時間が流れてる事に少し驚く。このままいつまでも明るい日差しと静かな広々とした部屋で、のんびりしていたい気分だ。
「何もしなくていいんじゃないか?」
 青空が遊びに来た時と同じだ。好き勝手に部屋の中で時の流れにたゆたう。日常生活で一番幸せを感じていた時間だ。
 ベッドの上には寝転べないので、体を伸ばすために押入の中から予備の布団を引っ張り出し、フローリングの床の上に敷いた。いい加減カーペットでも買おうか。
 体をその上に投げ出して手足を伸ばしていると、それを見ていた溢歌がこっちに近寄って来て俺の隣で寝転んだ。その仕草が何だか猫みたいだ。柔らかな髪を撫でてやると、猫になりきっているのか鳴き声の物真似をして背中を丸めた。
 ぼんやりとして、隣に好きな人がいて。ただそれだけの事なのに、どうしてこんなに心穏やかになれるんだろう。目を閉じてると、胸の中に心地よいメロディが流れてる事に気付く。形として遺す気にもなれない、生まれては消えていくだけの即興のメロディ。その音色一つ一つが俺の心に染み込んで、癒してくれる。
 ベランダからここまで登ってきた小鳥のさえずりも聞こえてきて、晴れ晴れとした気持ちになる。部屋の明かりは消していて、直射日光だけ。やや薄暗い部屋が、雰囲気を出している。一人でカーテンを閉め切って怒鳴り散らすように唄っていた場所とはまるで違う。
 あの闇の渕から俺を呼んでいたような部屋の白い壁も、ただ綺麗としか思えなかった。
 すぐ横にいる溢歌の顔を覗いてみる。穏やかな顔で、自分の髪を弄くっている。俺の目線に気付くと、少し恥ずかしそうにしてその仕草を続けた。布団の上に広がってる溢歌の長い髪を手に取ると、毛布よりも手触りがいい。そのまま何度も手の平で転がしてると、とても気持ちがよかった。それがこそばゆいのか、溢歌はくすぐったそうな顔を見せる。
 溢歌も俺と同じ気分を味わっているのかな。きっと俺なんかよりも大変な過去を背負ってるんだろうってのは、そばにいると感じていた。ひとりぼっちになった時は、毎日が絶望の淵に立ってたに違いない。
 こんなふうに心安らげる時間を、これからもっと二人で作っていけるのかな。だなんて、数ヶ月先の未来さえ考えもしなかった俺が思えるようになったのは、とても大きな一歩なのかもしれない。そして、これまでの苦痛や嫌な思い出を忘れてしまう時が来るんだろうか。時を積み重ねると、傷も和らいでいくんだろうか。
 俺達はまだ、寿命の半分も生きていない。大人になる事がどういう事なのかなんて、暦では成人を迎えてる俺にも見当もつかない。誰かを思い遣る事ができるのが大人なら、俺にはまだその資格はないと思う。愁の泣き顔が視界にちらついた。
 ぼんやりと考え事をしてると、溢歌が俺の上に乗っかってきた。それほど重くない。肩から垂れる髪が俺の顔にかかって、ちょっとばかりくすぐったい。
「する?」
 俺の目を真っ直ぐ見つめて溢歌が訊いてくる。
「しないよ。今やってしまうと心まで愁を裏切る事になってしまう」
「ただの綺麗事ね」
「いいんだよ、綺麗事で」
 目をそらして拗ねてみせる。まだ青空に対する後ろめたい気持ちも確かにある。
 今はもう、触れたら消えてしまいそうだなんて思えなくなっているから、しようと思えばいくらでもできるはずだ。けど、今はこの幸せな時間を棒に振って欲望に溺れようという気にもなれない。
「何もしないの?」
「何もしないよ。と言うかする気が起きない……」
 喉の痛みも若干続いてる。これまでずっと唄ってきた疲労が溜まってるのかな。今の俺はすっかり抜け殻みたいになってるので、闇雲に唄おうと考える事すらできない。
 退屈なのが溢歌は不満なようで、布団の上でだだっ子のように手足をじたばたさせる。
「つーまーんーなーいー」
「いいからうにゃーごろごろしてろ」
「にゃーん」
 頭を撫でてやると、猫の鳴き声を上げて膝元に擦り寄ってきた。何だ、結構満足なんじゃないか。愁との関係に一段落がつけたら、溢歌をデートに誘うのもいいかもしれない。
 そう思ってから、俺自身愁とこれからどういう立場でありたいのか、よく判らなくなった。これまでの関係に戻れないのに、お互いを認める間柄になんてなれるはずもない。
 深く考えると気持ちが暗く沈んでしまいそうなので、気分転換に溢歌に話題を振った。
「大体、普段青空と一緒にいた時は何してたんだ?」
「SEX」
「……直球過ぎる答えだな」
 思わず自分の眉間を指で摘んでしまう。溢歌が俺以外の男に抱かれたという事への不信感や嫉妬は思ってたよりも沸いてこない。それより本当に逃避の手段はそればかりなんだなと、ちょっと呆れ返ってしまった。単に、ただの好きモノの気もしないでもない。
 今度は溢歌が俺に質問してきた。
「青空クンはギターを弾きたくてうずうずしてたけど、黄昏クンは歌いたくてうずうずしないの?」
「しない。昔は歌ってないと気が狂いそうになってたけど、今はそんな事はない。元々根っからのさぼり癖だし」
 そのさぼり癖は、自分が動いたところでこのくそったれな世界が変わる訳なんてない、なんて諦めに似た思いから来てるのは重々承知していた。今もその思いは変わらないけど、自分の周りだけは自分の力で変えていける事を知った。いや、俺だけの力じゃない。俺の事を見てくれる人がいるから、できるんだと。
「歌わなくたって生きていけるなんて思ってた頃は、それこそただの魂の入った人形みたいに自分が思えた。青空の作ってくれた歌が唄えなくなった時も辛かった。昔と違って、歌う歓びみたいなものは感じてる。そう考えると、やっぱり必要なんだろうな」
 歌に対するスタンスが随分変わったと実感する。苦しみながらすがるように唄っていた時と、この前のライヴで誰かのために唄うのでは全然違う。これからもきっと歌に対する考え方は様々な物事によって変わっていくんだろう。どれが正解だなんてわからないけど、いつか自分にとって唄ってる事が誇りと思える日が来るんだろうか。
 布団に横たわってた溢歌は体を起こし、体にかかった髪を全て後ろに払った。
「私は逆。何も考えずに歌っていられた頃は、幸せだったわ。でも、外からの要因で考えれば考えるほど歌うのが嫌になっていったわ。黄昏クンみたいに、歌えない状況になった事がなかったから。そうなった時に歌いたいと心の底から思えたかどうか」
 そう口にする溢歌の表情に陰りが見えるのは、否定の感情に他ならない。
「歌う事を誰かにけなされたりしたのか?」
「逆よ。誰もが褒めてくれたから、苦しくなっていったの。どうして褒めるのか、そこを考えていったら歌う気なんて無くなっていったわ。でもね、歌っている最中は気持ちいいのよ。好き勝手に声を出している事が。そして、歌い終わる事が怖かったのよ」
「……俺にはよくわからない理屈だ」
 褒めてくれた相手の自分に対する感情を汲み取るのが嫌だったのか。溢歌ほどの歌唱力があるなら、金儲けを企む連中が出てきてもおかしくはない。
 溢歌は遠くを見つめ、くだらないと言った感じに溜め息をついた。
「色々あったのよ。そうなるまでに色々とね。さすがに今でも、そんな過去に向き合う気にはなれないわ。青空クンと違って、話してもきっと黄昏クンは私を見る目を変えてくれないでしょうけど。そうね。私から話せるようになった時に、聞いて欲しいの」
 さりげなく言った溢歌の願いに、俺は黙って頷いた。こいつの過去を俺が受け止めるなんて簡単にできはしなくても、一緒にいる事で痛みを和らげる事くらいできるはずだ。
「溢歌は一人の時、よく歌うのか?」
 少し気になって訊いてみた。自分とどう違うのか、知りたかったから。
「歌うわ。呼吸をするように知っている歌を口ずさむの。でも、歌う事で癒されるのと同時に、過去を思い出して傷つくのよ。私の歌は、これまで生きて来た道程と同じだから……捨てる事でできないし、結局はそれにしがみつくしかないの」
 俺とは境遇が違うけれど、溢歌のその気持ちは痛いほどよくわかる。捨てようと思っても捨てられない。生きるためには唄うしかないんだって。それを重石に感じてしまう事は数え切れないほどある。けど、いくら否定しても何かが変わるわけじゃない。何とかして受け入れられるようにならないと、苦痛でしかないんだ。
「黄昏クンは、どうして歌ってきたの?」
「……これまた深い質問だな」
 何気ない溢歌の問いに思わず苦笑する。いい機会なので、一から説明する事にした。俺の生い立ちから歌うようになったきっかけ、そして青空達とバンドを組んだ事まで。伝えたい事が多すぎて、いつになく饒舌になってしまうかもしれないな。
 時間はたっぷりある。急ぐ事もなく、自分自身を晒し出すように、昔話をしよう。
 自分の生い立ちを誰かに一から聞かせるのは、とても趣深い事だった。溢歌は俺の話を退屈もしないで興味津々に聞いてくれている。そんな顔をする溢歌に俺はもっと面白い話を聞かせようと、記憶の深い部分まで探って全てを伝えようとする。ベランダの外の日差しが徐々に移り変わっていくのを感じながら、夢中で話を続けた。
 俺の家族、青空との出会い、小中と中退した高校の自分、音楽との遭遇、漫画みたいな初体験、その他もろもろ。
 他人よりそんなに起伏に富んだ人生を送っているとは思ってない。父親の顔も写真でしか知らないくらいで、高校をドロップアウトしたのは自分の責任だ。
 それに、実際の所暗闇の中で独り唄ってた時の方が、よく覚えてる。あの時の感情が心に刷り込まれてる感じか。思い出に残るような事なんてほとんどないのに、心が濁っていく様だけは今でも鮮明に覚えていて、思い出すだけで気が重くなる。
 そう、青空が来てくれたのは、本当に救いの手だったんだ。
「――『Days』を初めてからは、歌への姿勢が時と共に変わってる。定期的に疑問が生まれてきて、頭を悩ませてライヴボイコットして家に閉じこもってたな。最初の頃は、俺をここから連れ出してくれた青空の気持ちを歌いたいって思ってた。あいつの書いて来た歌は、俺の気持ちといつもぴったりフィットしてたんだ」
「私は二人は同じ波長を感じるわ。だからそれもきっと、当然の事なんでしょうね」
 溢歌に言われてみて、改めて納得した。
「あの頃の俺は、ただただ光を求めて歌い続けてたんだ。そこの壁――に自分自身で暗闇を作り出して、飲み込まれないようにもう必死で。でも、ステージで歌い続けていくうちにだんだん怖くなってきたんだ。誰かに歌を聞かせる事で救われてきた俺なのに、その相手がどんな気持ちで聞いているかとか考えると、俺達の歌に乗せた気持ちが誰にも届いてないんじゃないかって思えて……」
 多分きっと俺は、苦しみを誰かと分かち合いたかったんだと思う。傷の舐め合いだろうが構わない。他人に自分の気持ちをわかってもらうことで、楽になりたかったんだ。
 それが良い事なのか悪い事なのかは、今でもよくわからない。
「溢歌はそんな事、これまでに考えたりしたか?」
 話を振ると、きょとんとした顔で俺を見つめ返す。
「相手がどう思おうだなんて関係ないわ。私はただ歌うだけよ。第一、求めているのは私の歌じゃなくて私そのものって人間ばかりだったんだから」
 その言葉を理解するのに若干時間がかかった。その後はっとなって、口をつぐんだ。
 これは溢歌に聞いてはいけなかった質問だったかもしれない。嫌な過去――どうしてそこまでして苦しむのか、その一面が垣間見えた気がする。
 それと、やはり溢歌は自分のためにしか唄ってないんだと気付いて、悲しくなった。
「……私の事はいいから、黄昏クンの話を続けて」
 目を伏せて溢歌が促すので、言われた通りに話を続ける事にした。
「――その時は、青空の説得で続ける事ができた。あいつが俺を必要としてくれる事がわかったから……でも、今度は歌わなくても生きていけるんじゃないかって思うようになった。それからだんだんと歌う機会も減ってきて、バンドももうダメなんじゃないかって時に――愁達と出会ったんだ。そこで救われた」
 あの時のだんだん腐っていく自分は、本当に情けないと思う。まだ一年も経ってない、つい最近の事だ。今でも気を抜けばそんな怠惰な自分が藪の中から現れそうで、ぞっとする。くたばり続けるのは簡単で、何もかも諦める事はとても気持ちのいいものだ。
 だからこそ、その間もずっと俺の事を見てくれた愁に、心から感謝してる。そして、裏切ってしまった事に胸がとても痛い。
「あの子に入れ込んでるのは、それが理由?」
「いや、違うと思う。あいつがバンドで何かをしたってのは一つもないし……俺達の出会いとか関係は、溢歌があいつの家にお世話になってた時に直接話を聞いたかもしれないけど。それからまたステージに立つようになってしばらくして、ついにギブアップした」
 自嘲気味に言ってのける。本当にあの頃の俺は、頭でっかちになってた。
「心のどこかでずっと歌いたいって気持ちがあっても、歌う事でいろいろな考えが次々に襲ってきて、滅入ってしまうんだ。相手がいると余計に。だからステージに立つのを止めて、ずっと引きこもってた。――溢歌に出会うまでな」
 そうだ。やっぱり俺を変えてくれたのは、溢歌だ。
「じゃあ、私がいなかったら黄昏クンは今も引き篭もったままでいたんだ」
「それは否定しない」
 ずばり指摘されてしまって苦笑する。あの時あの場所で出会ってなかったら、きっと俺はずっとあのまま堕落しきっていただろう。そう考えると、失ったものは大きいけど溢歌と一緒にいる事がとても幸運で、素晴らしいと思えた。
「でも、あの後青空とお前が抱き合ってるところを観て、俺は歌う理由すらなくなってしまったんだぞ。愁がいなかったら多分あそこで俺は死んでた」
「それはごめんなさいね」
 参った顔で呟く俺に、溢歌は楽しそうに小悪魔みたいに笑ってみせる。さすがにちょっと恨んだ。
「……まあいいけど。青空の気持ちばかり歌ってきたから、ショックであいつの作った曲を歌えなくなってしまったんだ。出会う前は自分で作った曲ばかり歌ってたけど――ずっとバンドを続けてた事で、俺の中に流れるメロディも変わってしまったから、昔みたいに歌う事もできなくなっちまった。ちゃんと歌えるようになったのは、それこそ一昨日だよ」
 気持ちの持ちようもあるけど、それ以上にあの曲が良かった。あんな短時間で曲全部を飲み込めたのも、振り返ってみれば溢歌に届けようという一心だったからかもしれない。
「青空クンと仲直りしたのね」
「ああ。あの曲は――青空が溢歌のために作ったものだろ?」
「ご名答」
 俺の問いに、溢歌は赤い舌を出す。それを聞いて、思わず深いため息がでた。
「……正直、ちょっと嫉妬する。青空があんなにも溢歌の事を想えていただなんて。愁と出くわす前に、お前聞いてきたよな?誰のために歌ったのかって。あの時答えたのは嘘じゃないけど、俺はみんなに歌ってた。俺が大切に想う人間全てに。産んでくれた両親に、育ててくれた叔父さん叔母さん。青空やバンドのみんな、そして俺達の曲を聴きに来てくれた客席の奴等。それにずっと俺を支えてくれた愁――」
 目を閉じるといろんな人の顔が浮かんでくる。俺を今日まで支えてくれた人。その人達に俺は懸命に唄った。でも。
「それでもやっぱり、俺にはお前なんだ。青空がどう思ってようが、愁に嫌われようが、溢歌、お前を選んでしまうんだ。それは多分――溢歌がいないと生きていけないと心のどこかで思ってるから。愁がいなくても……飯の用意とか別の意味で、生きていけないかもしれないけど。孤独になった時に手を伸ばすのは、やっぱり溢歌の方なんだよ」
 溢歌の目をしっかり見据えて俺は言った。喉の奥から胸の気持ちを全て絞り出すように。自分の内心を、嘘偽りなく伝えたかった。そうする事で、自分自身納得できる気がしたから。言葉にしないと、いつまでも愁の事を引きずってしまう気がしたから。
 そんな俺の決意の表情を読み取ってか、溢歌は俺の顔を見つめ返したまま、照れ臭そうに微笑むと、俺の手を取ってもう片方の手をその上に重ねてくれた。
「そこまで想って貰えて嬉しいわ。でも、これからどうするの?黄昏クンがそんな気持ちで唄えるようになった歌、唄う場所が無くなってしまったのに」
 溢歌の愛情に浸る暇もなく、現実を突きつけられて頭を抱えてしまう。そうだ、千夜が大変な分、今後どうなるのか全くわからない。元よりクリスマスライヴの後は小休止する予定だったけど、あいつが復帰できるのかどうか。
 これまでは俺一人だけ考えてればよかったのに。そう考えると、俺達4人はつくづく一蓮托生なんだなと思い知った。
「まだ無くなったわけじゃない。……きっと、何とかなるさ。それより今は愁の事だ。と言っても、相変わらずどうしていいのか途方に暮れてるけどな」
 茶化して言ってみせるけど、本当にどうしていいものやら。考えるだけで気が滅入るし、俺の方からリアクションを取りようがない。もう少し待ってから、キュウに相談した方がいいのかと思い始めた。
 昔話を続けていると、随分と日が傾いてしまった。さすがに冬の夕暮れは早い。ひたすら喋っていたせいか、腹の中も随分と空いてしまったので溢歌にシチューを温めてもらう。俺はベランダに干していたベッドのマットレスを取り込む事にした。
 一通り終わった後、携帯の着信ランプが点滅する。普段なら留守録任せで放っておくのに、今日は気分もいいからかディスプレイには知らない番号にも関わらずそのまま出る事にした。
「はい、もしもし」
「たそか?随分呑気だな」
 怒気の篭もった声で、電話口の向こうが一瞬誰か判らなかったが、すぐにみょーだと気付いた。
「ああ、みょーか。どうしたんだ?そっちから電話をかけてくるなんて珍しいな」
 自分で言ってから、愁絡みで電話をかけてきたのかと気付いて体温が上がった。
「それどころじゃねー!オマエのせいで、オマエのせいでっ…!!」
 焦る俺にみょーは怒鳴りつけ、言葉を奮わせる。
 急速に不安が膨らんだ俺に対する次のみょーの一言が、俺の胸に突き刺さった。
「愁は、手首切ったんだぞっ!!」
 ……嘘だろ?


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