→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第3巻

   061.涙がこぼれそう

「起きた?」
 目を開けると、そこに溢歌がいた。昨日と同じ目覚めの光景。二日連続で続くと、これが夢でもなく日常の一部になってる事を実感して、思わず笑みがこぼれる。
「こうやって、他人に起こしてもらうのはいい事だな」
「起こすというより、起きるまでずっと待ってたって言った方が正しいけれどね。ほら、朝ご飯できてるわよ」
「あ…そうか、昨日夕飯食わなかったんだっけ、俺」
 夕べの事を思い出し、ため息が漏れる。あの時の俺は気が動転しすぎて、溢歌に諫められる始末だった。これじゃいつもと逆だ。
 気を取り直して、洗面所に顔を洗いに行ってから台所へ戻る。朝食は和食で、味噌汁の匂いが空きっ腹にくる。綺麗に整えられた卵焼きとか、意外と器用なんだなと感心した。愁なんて卵をフライパンにぶち込むだけの目玉焼きしか作れなかったぞ。
 ふと、その時の楽しそうな愁の笑顔を思い出して、気が沈んだ。
「ほら、朝っぱらからしんみりした顔してないで、味わって食べなさい」
「はーい…」
 まるで母親に叱られてるみたいだ。つられて拗ねてみせる俺自身、ちょっと昔を思い出して嬉しかった。溢歌なりの気の配り方なんだろう。
 言葉少なに食卓に並べられた料理に箸をつける。会話をする気にもなれない分、いつもより味わって食べる事ができて、かえってその味が全身に染み渡っていくようで、一瞬不意に涙がこぼれそうになった。どれだけ涙もろいんだ、俺。
「うまかった・・溢歌は本当に料理が上手いよな」
「おじいさんに教えてもらったのよ」
 食後に淹れてもらったコーヒーを飲みながら応えると、溢歌は微笑み返した。
「言ったかしら?私、この国で育ったんじゃないのよ」
「えっと…言ってたか?何となく、そんな感じはしてたけど」
 初めての告白なのに、さほど驚きもしなかった。そりゃ、外見がどうみても異人の血が混じってるからだろう。特に目の深い部分の色合いの印象が、この国の人とは違う。
 でもそんな事に別段気も留めなかった。初めて溢歌と出会った時も、まるでこの世のものとは思えない月の妖精みたいに思えたものだから。
「私がおじいさんと一緒に住むようになったのも、そんなに昔の事じゃないわ。けれど、本当の育ての親だと思ってる。料理や洗濯や、色んなものを教えてもらったわ。だからかしら、つい和食ばっかりになってしまうのよね」
「たまに外食とかしないのか?」
「するわけないじゃない。ひとりでできるのに。そうね、独りぼっちになった時でも料理だけはちゃんと作っていたわ。食べなかったら人は死ねるのにね。何故かしら、おじいさんに教えてもらったものだから?捨てる気にもなれなかったわ」
 俺はそれを聞いて、物凄くいい話だと思った。おじいさんはいなくなっても、溢歌に大切なモノを遺してくれていたんだ。そう考えると、俺も母親が遺してくれた財産は俺を生かすためだったのかなと改めて思えて、少し胸にきた。
「本当におまえはいいお嫁さんになれるよ」
「貰ってくれる?」
「…考えとく」
 秋に溢歌が俺の家に泊まった時と似たようなやり取り。あの時は冷静にツッコミを返したけど、今の状況だと断るにも断れない。
 このまま、二人だけの時間が続いていけばいいのに。そう願っても、俺はこの時間を手に入れただけの代償を払わなければならない。
「……なぁ、昨日の事、怒ってないか?」
 食卓を片づけた後、恐る恐る溢歌に訊いてみる。真向かいに座る溢歌は俺の目をじっと見てから大きなため息をつき、両手を伸ばして背もたれに体を預けた。
「この前私も寂しいからってしようとしたでしょ。おあいこよ」
 ライヴ後に溢歌を家に送り届けた時の事か。あの時と昨日は立場が完全に逆だった。
「――お互い、SEXに逃げる癖はどうにかしたほうがいいかもな」
「本当にね」
 頬杖をついて呆れる二人。何度俺も愁に逃げ口上のSEXを求めただろう。こんな事じゃいつまで経っても成長できない。
 昨日の夕方、みょーからかかってきた電話を思い出す。
「――嘘だろ?」
 言葉の衝撃で体が固まってしまって、俺の手から携帯電話が滑り落ちる。そのまましばらく動けずにいた後、ようやく我を取り戻してベッドの上に落ちた携帯を拾った。
「嘘も酔狂もあるか。もう一度言うぞ、愁が手首を切ったんだ、風呂場で」
 頭から血の気が引いて、思わずその場で膝をつきそうになった。よろめきつつベッドの上に座り、受話口を耳に押し当てて次の言葉を待つ。
「……幸い、命に別状はないって。今救急車で和美と一緒に病院についたとこ。これから数日入院するかもな」
 助かった事に心の底から安堵する。
「何安心してんだ、誰のせいでこうなったかわかってんのか?」
 俺のため息が気にくわなかったのか、みょーが厳しい口調で言い返してくる。
「愁が血の流れる手首を押さえながら、何度オマエの名前を呼んでたかわかってんのか!?嫌われたくないって、何度も何度も口にしてたんだぞ」
 ――俺がしてしまった事がどんなに取り返しのつかない事だったのか、その時わかった。
「しゅ、愁はどこの病院に入院したんだ?俺も今から全速力で駆けつける」
「……あのな、今オマエの言ってるコト、わかってる?」
 冷静を取り繕って尋ねる俺に、みょーが落ち着いた口調で咎める。言われてから気付いた。俺が原因なのに見舞いに行ったところでどうしようもない。
「わかってる!……わかってるよ、そんな事は……でも俺が行かなきゃ」
「……たその気持ちはわかるけど、俺はオマエを愁の兄として会わすワケにはいかねーよ。んじゃな、切るぞ。ちゃんと伝えたからな」
「お、おい!ちょっと待……!」
 俺が言い終わる前に、電話が切れる音がした。焦って電話を入れ直すも、もちろんみょーが出るはずもない。状況を知りたくて青空かキュウに電話をかけようかと思ったけど、まだ二人がこの事実を知らなくて混乱してしまう可能性もある。千夜の件もあるから、余計な心配をさせたくないとも思ってしまい、携帯電話をベッドの上に投げた。
「この世の終わりみたいな顔をしていたわよ、あの時」
 溢歌の言葉で回想から我に返る。俺と違いコーヒーじゃなく緑茶を啜っているのは、個人の嗜好らしい。
「そういうおまえはとことん冷静だったよな」
「だって、他人事だもの。言わなかったかしら?もちろん、一緒に過ごした時間もあるから、多少の情はあるけれど」
 恨めしそうに見る俺にしれっと返す溢歌。
「第一、私にはあまりよくわからないのよ。友情とか、そういう感情」
 自分の記憶を辿るように目線を泳がせる溢歌を見て、それ以上怒る気にもなれなかった。冷たい奴とか言う以前に、育ってきた環境の中でそういう相手がいなかったんだろう。
 特殊な生い立ちなのは話の節々から理解してるので、仕方ない。
「生きているなら儲けもの、じゃないの?それで確実に死ねるのなら私がとっくに試してるわよ。黄昏クンだってそうじゃない?」
 冷静な返しに俺はぐうの音も出なかった。
「自分のしてしまった事に負い目を感じるのは解るわ。だからと言って、周囲に当たり散らしたりするのはよくないわね。特に私に」
「……おまえ昨日の事、絶対根に持ってるだろ」
「もちろんよ。私の意志がないSEXなんて、絶対にしたくないわ」
 きっぱりと拒絶されてしまった。愁の純潔を奪った時の事を思い出し、更に沈む。
 昨日みょーの電話が切れた後、俺はどうする事もできずに溢歌に怒鳴り散らした。外に出てバイクを走り回らせたところでどうにもならないし、他の奴等の電話を待つしかない。第一俺の責任なのに周囲に助けを求めるのも滑稽な話で、そんな事をしてもみんな冷めた
目で返すだろう。今の青空やキュウにはそんな余裕すらないか。
 そんなくだらないプライドや体裁なんて気にしないで泣きじゃくりたいのが本音だ。だから俺は混乱する頭と渦巻く感情を抑えきれずに溢歌にぶつけた。その際冷静に対応する溢歌の態度にも腹が立った。ますます俺は居たたまれなくなって、情欲に身を任せようとした。情けない話だ。
「あなたの鬱憤の発散だけにこの体を使われるなんて、絶対ごめんだわ」
 ベッドの上に組み敷いた溢歌に吐き捨てるように言われ、股間に蹴りまで食らってしまった。同じ状況で愁とは全然違う反応を見せた所が、今思えば面白い。
 その後はあまりよく覚えていない。毛布にくるまって昔と同じように感情から産み出されるメロディに身を任せて喚き散らそうと思ったら、溢歌の腕に抱かれて眠ったんだっけ。昨日と違って、愁の夢を見なかったのはそのおかげか。
「溢歌がそばにいなかったら、バイクで夜の街をぶっ飛ばして海に転落してたかも」
 今の気持ちを正直に呟いてコーヒーを啜ると、苦笑された。
「もっと私に感謝しなさいよ?本当に黄昏クンは泣き虫なんだから」
「悪かったな」
 俺よりかなり年下のくせして、時折俺より大人の対処をする。少女になったり娼婦になったり、ほんとにつかみ所のない奴だ。もちろんそんな所も惹かれてるけど。
「経過を見守る事しかできないのだから、もう少し落ち着いた方がいいわよ。病院の場所すら知らないんでしょ?」
「そういや、電話入ってるかな」
 溢歌の言葉で気付いて席を立つと、昨日眠ってる間に着信がなかったか確認してみる。思った通り、キュウと青空とイッコーから来ていた。キュウだけやたらと件数が多いのは、俺への恨み節だろうか。全て聞こうと思うだけでげんなりしてきた。
 だけどここで全て受け止めないと駄目だろう。それが俺の贖罪なんだから。
 先に青空達の留守録を聞いておこうと携帯を弄くってると、突然着信が入って驚いた。知らない電話番号だ。みょーなのかと一瞬考えるも、あれだけの剣幕だったからすぐに否定した。じゃあ誰だ?
「もしもし」
 セールスの電話ならすぐ切ってやろうかと思って出たら、受話口から聞き慣れた女性の声がした。
「あ、たそさんですか?雪森です。雪森 和美です」
「あ、な、和美さん?」
 予想外の相手だったので、思わず声が裏返ってしまう。台所にいる溢歌になるべく聞かれないように、ベッドの端に座り直した。
「す、すいません、俺…」
「いいんですよ、もう、大丈夫ですから」
 俺の口から真っ先に出てきたのは謝罪の言葉。そんな俺を和美さんは落ち着いた口調で宥めてくれた。
「本当は、こうして隠れてたそさんに電話するのも何なんですけど」
「あ、みょーはそばにいないんですか?」
「今、私だけ先に一人で家に戻ってきたところです。愁ちゃんは数日入院させて様子を見るって言ってました。明星はご家族と一緒にあちらにいますよ」
「そうですか」
 そう言えば愁の両親は一度も見かけた事がないな。やっぱり俺は家族全員に恨まれてたりするんだろうか。
「そうだ、どこの病院に入院したかわかります?」
「ええ、その件で今たそさんに電話をかけたので。昨日は明星が物凄い剣幕で怒って、伝える前に電話を切っちゃったから…」
「迷惑かけます。…でも、いいんですか?行っても。愁に会ったら、余計混乱させてしまう気が……」
「もちろん、顔を合わせる事はできないと思います。でも、病院に見舞いに来た事実が、あの子の張りつめた心を和らげる事になるかもしれませんし。今回の件の詳細についても、電話でより、直接私達と話をして聞いた方がいいような気がします」
「うーん…」
 さすがに即答はできなかった。今、みょーと鉢合わせするのは避けた方がいい気もする。愁が退院してからの方が、多少は冷静になれるような。
「たそさん、私は今回愁ちゃんの身に何が起こったのかを、あなたが真正面から受け止めなければならないと思ってるんです。あの子が怪我している所を最初に見つけたのは、私ですし……」
「そう、だったんですか。何か、言ってましたか、俺の事」
 心苦しくても、ちゃんと聞いておかなくちゃいけない。
「……『たそに嫌われたくないよ』って。『私はこんなにもたその事が好きなのに、たそは私を見てくれない』って。……二人の間に一体何があったのか、そこまで深くはわかりません。でも愁ちゃんが、あなたの事を想って、今回の事になってしまったのだと思います。私も、たそさんを非難したり問い質すつもりはありません」
「ホントに、すいません。……謝る事しかできなくて」
 俺の中に後悔の念が渦巻いて、唇を強く噛みしめる。しかし、時間を巻き戻す事はできない。だから、受け止めなくちゃいけないんだ。
「病院の場所は……はい、はい」
 和美さんに教えてもらった病院の場所は、愁の家の近く。ここからだとバイクで一時間近くかかるか。
「今すぐ行きます」
「いえ、できることなら夕方以降に…その方が、ご両親もいませんから」
「お心遣い、感謝します。じゃ、病院で」
 電話を切ると、どっと疲れが出てそのままベッドに体を投げ出した。和美さんの言葉が頭の中を何度も繰り返し、視界がぐらついてくる。
「大丈夫?」
 動けない俺をいつの間まにかそばに来ていた溢歌が覗きこんでいた。
「俺の電話、聞いてた」
「いいえ。打ちのめされている事ぐらい見れば誰でも解るわよ」
 確かに。とにかくこれから留守録の続きを聞いて、3人に返事をしよう。じっとしてると余計に負のスパイラルに入ってしまう気がしたので、仕方なく電話を取る。何もかも放り出して溢歌と一緒に逃げるのが一番楽だけど、-そんなわけにもいかない。
「溢歌は……どうする?病院の場所教えてもらったから、一緒に来るか?」
「黄昏クンがそうして欲しいなら、そうするわ。あの人達に会うのは久し振りだし、勝手に愁ちゃんの家を飛び出して以来顔を合わせていないもの。けれど、私とあなたの関係が知れたら、ただじゃ済まない気もするわ」
「あ……そうだな」
 俺一人の問題に、わざわざ溢歌を巻き込みたくない。溢歌は何も悪い事をしていないんだから。けど、みょーや和美さんはそんな目で溢歌の事を見てくれないだろう。
「口裏合わせればいいわ。黄昏クンは顔に出るから、何も言わなくていい。見舞いで私を途中で連れてきた事にすれば、後は私が何とかするわよ。どうせ、本人と面会する機会はないんでしょうし」
「悪いな」
 俺一人でいくより、溢歌がそばにいてくれた方が取り乱さずにすむのも確かだろう。
「さて、これからみんなに電話をかけるか……。悪いけど溢歌は――いや、そばにいてくれないか?俺一人じゃ、勇気がなくてさ」
 こんな事を溢歌に頼むのも恥ずかしい。けど俺一人じゃこれからの重圧に耐えられない気がしたので、恥も外聞もなかった。
「いいわよ。だけど、また押し倒されるのは勘弁ね」
「ああ」
 苦笑する俺の手に、溢歌が柔らかな手の平を重ねてくれる。そのぬくもりだけで、俺はこれから待ち受けるどんな困難にも立ち向かえる気がした。
 ……実際は、そんなに甘くもなかった。


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