063.True Tears
世間は年末だというのに、自分の中じゃ全然そんな気分にならない。
確かに先週は一生心に残るクリスマスを過ごしたはずなのに、正月がやってくる感じもしない。ライヴ後にいろんな事が起こりすぎて、頭が混乱しているせいか。
「今日も冷えるな」
昨日に続いてやたらと冷え込む。太陽は出ていて雲も少ないのに、こんなに寒いのは海が近いせいだろうか。昨日今日とバイクに乗って、体が冷えたせいか若干喉が痛い。
「寒いのが嫌なら、バイクになんて乗らなければいいのに」
「電車に乗るのが嫌なんだよ、人多いし」
意地悪そうに言ってくる溢歌に屁理屈を返す。実際には、徒歩も面倒だ。
今日は朝から溢歌の家へ向かっている。まだ朝食は取ってない。溢歌は昨日買ってやった厚手のワンピースを着てる。ズボンでいいって俺が言うのに、わざわざそれを選ぶのはただの意固地としか思えない。二枚重ねにすれば温かいとか意味不明な事を言い出す。
「ここに来るのも、物凄く久し振りに見える」
防波堤を下りて、いつもの岩場が見える港に出る。あれから4日しか経ってないのに、まるで一年以上見ていなかった気がする。それくらい、色々ありすぎた。
「いつ見ても、綺麗な海だな」
朝の光にきらめく大海原が目に眩しい。柔らかい日差しの向こうには水平線が見える。天使が羽ばたいてきそうな、絵画みたいな光景だ。
「自慢の海よ、私の海」
隣の溢歌が両手を大きく広げ、胸一杯に空気を吸い込む。その顔はとてもすがすがしくて、憑きものが落ちたみたいだ。全ての過去が清算できた訳じゃないのにこんなにもいい表情を見せられる溢歌が羨ましい。それが隣にいる俺のおかげだとしたら、なお嬉しい。
当の本人は、大海原の眩しさに現実逃避してしまいたくなるほど辛いっていうのに。
「今日は私の家に来ない?」
目が覚めた開口一番、溢歌が俺を誘った。
特に予定もないし、家に篭もっていても愁や千夜の事を考えて気が重くなるだけだ。気分転換とはいかなくても、多少気が紛れると思った。それに、俺の家の周りよりは散歩できる見所があるだろう。
また、空腹で腹が鳴った。振り返ってみると昨日も晩飯を食ってない。精神が磨り減って、家に溢歌を連れて戻ってくるなりベッドの上に体を投げ出し、そのまま眠りについた。夢すら見ないほど意識が飛んでいたのは、現実を思い出さないようにするためのリミッターなのか。
「家に着いたら、何か食べさせてあげるわよ」
肩にかかる髪を払いながら溢歌が言う。今は温かい物が食べたかった。
「しかし、驚くほどゆっくりしてるな、俺達」
溢歌の家の方角へ向かいながら、今現在の率直な感想を述べる。街中は年末年始で忙しいっていうのに、光合成しそうな朝の光を浴びて海岸沿いを歩いていると、ホントに自分は世間から隔離された存在なんだなと改めて思う。
「働きたくなった?」
「そういう訳じゃないけど……そうだな、本気で考えなきゃいけない頃なのかもな。いつまでも親のスネかじってる訳にもいかないし」
ましてや溢歌と一緒に暮らすのなら、と心の中で続けた。
「大丈夫よ、私が何とかしてあげるわ。人一人食べさせるくらい、なんてことないもの」
「年下に任せるヒモになんかなりたくないぞ」
さすがにぐうたらな俺にもそれくらいの虫けらのプライドはある。第一、溢歌がそんな事を言うと体を売る方向以外想像できないじゃないか。
「見くびられたものね、本当は凄い女の子なのよ、私」
「はいはい」
軽くあしらう。溢歌がどれだけ歌唱力があるからと言って、それだけで一気に歌で金を稼げるとかもありえないし。信用してない俺の態度に、溢歌は少し頬を膨らませていた。
そんなこんなで他愛もない会話をしてるうちに、離れた集落にある溢歌の家に着いた。何度見ても、木造でボロボロだ。
鍵を開ける溢歌に訊いてみる。
「どうするんだ、この家?」
「何が?」
「何がって……もしかして、このままずっとこの家に住むつもりなのか?」
「どうかしら」
そっけない返事をされた。そのまま溢歌は玄関に上がるので、後に続く。
「もちろん、この家に思い入れはあるわ。でも、死の匂いがするこの家にあまり居たくない気持ちもあるのよ。未来の事なんて全然考えていないから、どうするかなんて決めてないわ。黄昏クンは、私にどうにかして欲しいとかあるの?一緒に住みたいとか?」
「いや……俺もそんなに深く、考えた事はないけど」
疑問を返されて、返答に困ってしまった。着ているジャンパーを脱いで、居間の畳に体を投げ出す。溢歌は早速すぐそばの台所で、朝食の準備に取りかかり始めた。
「俺も、ほんの1,2ヶ月先の未来さえ想像してなかったから。バンドをやるようになって、次のライヴの事までは考えられるようになったけど、今はライヴもどうなるかわからない状態だからな……ある意味人生の目標を見失ってるよな」
笑い事じゃないのに落ち着いて構えていられるのは、そばに溢歌がいるからだ。愁の事でとことん自分自身を責めても、死にたいと思えないのはこれまでの自分からすると想像もつかなかった。それくらい、俺にとって溢歌の存在が大きい。
「わかった、無職ね」
「はっきり言うな」
ちょっと傷ついたぞ、今。
「そういう溢歌はどうするんだ?学校行ってないんだろ?」
「行ってなくても、向こうで学んだあなたと同じくらいの教養があるわよ。高校中退した人に言われたくないわ」
耳が痛い。小中学校の成績はそれほど悪くなかったんだけどな、俺。
「どうするか……そうね、何とかするんじゃない?私にも先の事は分からないわ」
「……そうだな、急いで何かを見つける事もないもんな。じっくり探せばいいんだ」
自分に言い聞かせるように答える。
何だろう、この数日前から漠然と感じる果てしない真っ白な未来のキャンバスは。
生きる目的なんてはっきりと見えている訳じゃないけど、溢歌と一緒になった事で、俺達の目の前には未来という選択肢が現れた気がする。これまでは絶望を選べなくて、ただただ生きてきたつもりでいたのに。
この感覚が『希望』ってやつなのかな。
朝食ができあがるまで、少しこの家の中をぶらつく。家の構造は一階建てで、玄関から上がって左手に木の廊下と台所、右手に俺が今くつろいでる居間がある。廊下の先には左手に浴槽とトイレ、右手と突き当たり両奧に6畳程度の和室がある。柱も漆塗りの木で、ずいぶんと古びていても一人で住むには広すぎる家だ。もちろん、余計な物は置いていなくて通常よりも広く感じる。
俺がここに住むなんて事も、将来あり得るのかな。
「黄昏クーン、ご飯できたわよー」
「はーい」
台所から溢歌の呼び声がしたので、返事をして戻る。ホントに、母親と暮らしてるみたいだ。この感じも、悪くない。
味噌汁やだし巻き卵や野沢菜等、質素ながら満足できる味の料理を居間に用意したこたつの上へ持って行く。俺の家はフローリングでこたつなんてないので、新鮮な感じがする。
「いただきます」
食卓には黒豆や鮭、野菜炒めや肉じゃが等、まさしく家庭料理が広がっていていろんな味に飽きない。バイト先で学んだ洋物が得意な青空とはまた違い、口慣れてない味がいつになく味わい深い。俺も時間がやたらと余っているんだから、少しくらい料理を教えてもらったほうがいいのかなと思ったりもした。
「溢歌のおじいさんって、どういう人だったんだ?」
さっきから気になっている、そこにある仏壇に飾られたセピア色の写真を観て、質問してみる。溢歌とは似てるようで似つかない。そりゃ二世代離れてるし性別も違うし当然か。
「優しい人だったわ。私以外、身寄りがいなかったの。それでもこの地域の人には、とても愛されてたわ。私自身は、あまり周囲の人達とつき合いはなかったけれど。おじいさんがいなくなってからは、すっかり塞ぎ込んでしまっていたし。奇異な目で見られていたかもね、変なお嬢さんだって」
箸を止め、自嘲気味に笑ってみせる溢歌。そういや引き籠もっていた時の俺も、周囲からどんな目で見られているかだなんて考える余裕さえなかった。
「実際、こっちに来る前におじいさんの事はほとんど知らなかったのよ。何かあった時に、あの人を頼りなさいって言われていたから、独り身になった時にそうしただけ。逃げたかったのよ、これまで住んでいた場所から。あそこには、嫌な思い出しかないから」
「……悪いな、飯がまずくなる話題しちゃって」
せっかくの豪勢な朝食なのに、暗い話で沈む事もない。
「いいのよ。実はね、ついこの前に身の上話を青空クンにもしてるのよ。……思い出したくない部分を除いてね。だから少しは吹っ切れてるわ」
あっけらかんと溢歌は笑ってみせる。
「それに、黄昏クンにも聞いていて欲しいし。昨日、いろいろ身の上話を聞かせてもらったしね。私のは大して面白くもないけれど」
「いや、俺も溢歌の事はもっと知りたいよ。一緒にいるのに、わからない事だらけだしさ」
「女には謎な部分がある方が、魅力的に見えると思うわよ?」
味噌汁を啜る手を止め、悪戯っぽく笑ってみせる。この小悪魔的な笑顔が、妙に俺の心を惹き付ける。
「答えたくない事は言わなくていいさ。ところでおじいさんと二人暮らしって事は、両親もいないのか?じゃあ、俺と同じか」
「離婚したり死んじゃったり、色々あったのよ。私が本当の家族だと思ってるのは、産んでくれたお母さんと、ここで一緒に暮らしていたおじいさんの二人だけよ」
「……何か、ホントに俺と似たような境遇なんだな」
偶然とはいえ驚いてしまう。類は友を呼ぶとはよく言ったものだ。
「もしかして、一人でこっちに来たなんて訳はないよな?未成年なのに」
素朴な疑問が湧いたので、つい訊いてしまう。
「当然じゃない。お母さんが生前頼りにしてた人に私も頼ったのよ」
「ふうん」
これ以上深い詮索をするのは止めておこう。
「数える程しか会っていなくても私も小さい頃から知っている人だったし、恩は感じているわ。……そうね、せっかく命を繋いだもの。後で恩を返す事は、あるかもしれないわ」
溢歌の自己完結させた言葉の意味がよく解らなかったので、あえて無視して冷めないうちに食事を続けた。こいつにもいろいろあるみたいだ。
朝食の量はさほど多くなかったけど、全部平らげるとさすがに苦しくなって、居間の畳の上に大の字に寝転がった。溢歌が食卓を片づけるので手伝おうとすると、やんわり断られた。これが女の仕事らしい。何だかぐうたら亭主みたいだ、俺。
「年末か…おせちとか作るのか?」
何となく気になったので台所で食器を洗う溢歌に訊く。
「何、作って欲しいの?」
「……いや、なんとなく」
「そうね、黄昏クンがそう言うなら、簡単なものくらいは作ってあげるわよ」
「悪いな。一人で住むようになってからは、食ってなかったもんな、俺」
叔母さんの家で毎年食べてたおせちとお雑煮を思い出す。本当の家族じゃないからって、お年玉を貰うのさえ拒否してたな、俺。遠慮するなって押し付けられたっけ。
俺もそろそろ、一回叔父さん達の顔を見に行った方がいいのかもな。一人暮らししてからほとんど連絡取ってないし、心配かけてばかりじゃ悪いか。
そんな事を考えられる余裕が出てきた自分に少し驚き、苦笑する。これまで色んな人に迷惑かけてきた分、恩返しとかできるのかな。そのためには、自立しなきゃいけないか。
そう考えると、なかなか辛い。バイトの経験もないしやり方すら解らない。ラバーズのマスターに相談すれば面倒見てくれそうな気もするけれど、どうにもあの人は苦手だ。
『そんな事考える前にCD作れ!』とか真正面から言われそうだ。
「お風呂沸かしたから」
雑務を終えた溢歌が戻って来て、こたつに潜り込む。俺もこたつに入って、茶を啜った。
「何だか、昨日の事が嘘みたいだ」
目の前に広がる風景だけを見ていると、愁の事も、千夜の事も全て遠い昔の事のように思えてしまう。
「嘘じゃないわよ。愁ちゃんが退院して元気になったら、ちゃんと謝りに行くのよ」
「一人でか!?気が重いな……」
こたつの上に突っ伏す。どれだけ考えても、愁に会った時に何て言えばいいのか思いつかなかった。また愁と一緒に暮らす事もできないだろうし、体を重ねる以前のように振る舞う事もできない。バンドの練習にも来ないだろう。そう考えると、これから二度と愁と会えない可能性もある気がして、不意に寂しくなった。
「せめて、バンドだけでも何とかなれば……」
千夜が悪い訳じゃない。怒りの矛先を向ける相手は分かっていても、殴り込みをかける訳にもいかないからやり場がない。警察任せってのも情けない話だ。
どっちの件も、俺には何もできない事がとても腹立たしく、不甲斐なかった。
「バンドがなくなっても、黄昏クンはこれからも唄い続けていくんでしょう?」
「縁起の悪い事言うなよ。青空の横で、他の仲間と唄っていくつもりだよ」
分かっていてもぎょっとするような事を言わないで欲しい。
「でも……現実問題、どうするんだろうな。どうすりゃいいんだろうな」
マスターにインディーズのレーベルに入らないかって誘われてたけど、今の状態じゃ宙ぶらりんだ。CDを作ろうにもドラムを叩ける人間がいない。千夜が復帰できるとしても随分先の事になるだろう。それまで俺はこのままぐうたらしてればいいのか。
「黄昏クンは、唄いたいの?人前で」
「人前で……というか、何だか一人ぼっちで唄うのは、嫌になってきた。何か……辛いだけなんだよな。常に自分と向き合ってなけりゃならないしさ。どんどん深みにはまっていく感じがして――救われてるのに、救われないんだ。解るかな、俺の言ってる事」
「言わなくても解るわ」
実に溢歌らしい返答で、思わず感心してしまった。
「唯一の心の拠り所が、自分の大嫌いな歌を唄う事だなんて、滑稽な話よ。聴かせる人がいない歌って、どれだけ悲しい事か、身を持って知ったわ」
溢歌は目を細めて、仏壇の方に視線を移す。きっとおじいさんが生きていた頃は、歌をそばで聴かせていたりしたんだろう。
「だから、歌を聴くのも嫌になったのか?」
「――それだけじゃないわ。もっと深く、昔から根が張っているのよ。反吐が出るわ」
露骨に嫌悪感を示して悪態をつく溢歌が、どれだけ辛い過去を送ってきたのかと思うと胸が痛んだ。
「でも、私に歌う事を教えてくれた母親には、とても感謝しているわ。育ってきた環境を呪う事はあっても、産んでくれた母親を憎んだ事は一度もないわ。……少しだけ、あるかしら。もっと長く生きていてくれたらって。悪いのは、病気のせいだけどね」
指を絡ませ、天井を見上げる。憂いを帯びた溢歌の横顔がとても可憐で、俺は言葉を無くしてしばらく見とれていた。
「そうだ、黄昏クン。お風呂の後に、受け取って欲しい物があるの」
「キスとか?」
「馬鹿ねっ、そんな野暮な話じゃないわよ。私の大切な宝物よ」
「何だ、それって」
「お風呂上がった時に教えてあげるわ。そろそろ沸いた頃でしょ。見てくるね」
結局教えてくれなかった。何だろう、宝物って。古い風呂の湯船に浸かっている間、どんなものかあれこれ想像していた。
一緒に入るか催促したら、浴槽が狭いからと断られた。確かに狭い。俺の家の風呂よりも浴槽の高さがない。これが檜なら、もっと風情が出てていいのにと思った。
「黄昏クン、背中流してあげるわ」
背中を曲げて肩まで浸かっていると、ワンピースの裾を結んだ溢歌が顔を出す。少々恥ずかしい気がしながらも、お言葉に甘える事にした。
「……ああ、何だか俺、今物凄く癒されてる感じがする」
少しのぼせた頭で、今この瞬間の幸せをしっかりと噛みしめる。溢歌がそばにいなかったら、今頃発狂寸前になっていたかもしれない。
「はい、終わり。出たら言ってね。溜まったものを洗濯してるわ」
泡立つ背中をお湯で洗い流した後、溢歌があっさり引き下がる。
「てっきり、洗ってる最中に抱き付いてきたり、前も洗いましょうかと言ってくるものばかり思ってた」
「人を淫魔みたいに言わないでよ。いつでも餓えてるだなんて勘違いしないで」
「悪い。俺が出た後、溢歌も入れよ。俺も背中を流してやるから」
「途中で胸を揉んで行為に及ぼうとしないなら、いいわよ」
前もって咎められる。実際、その番になった時にうなじにキスをしたら、物凄く裏返った声を上げた後に洗面器で何度も頭を叩かれた。だって、溢歌の小さな背中はとても綺麗で、肩胛骨から翼が生えてないのが嘘みたいに思えたもの。
「はーさっぱりした」
親父臭い声を上げて、風呂から出た溢歌が戻って来る。既にワンピースを着ていたのが少し残念だった。俺の隣に座ってドライヤーで髪を乾かし始めたので、タオルを持って手伝ってやる。途中乾いた長い髪を手にして肌触りを愉しんでいたり、その匂いを嗅いでいたら見事にチョップを喰らった。そうされるのが相当恥ずかしいらしい。
俺も自分の事を、少しばかり変態だと思う。
のんびりしていると、時刻は正午を回っていた。朝食べたのが遅かったので、昼食は後回しにしてもらう。さっき言っていた、宝物の件を先に済ませる事にした。
溢歌が奧の部屋へ取りに行っている間、庭先に出て日光を浴びる。障子を開けると寒いけど、朗らかな空気が気持ちいい。潮の香りが漂ってくる。
「これよ」
振り返ると、溢歌が大きなハードケースを両手で抱えていた。俺の前で下ろして、専用の鍵を差し込む。蓋を開けようとするけどやり方が解らないのか、手伝ってやった。
「これは……ギター?」
中から出て来たのは、装飾が散りばめられた深い藍色のエレキギターだった。俺には型なんてよくわからないけど、やや年代物な気がしなくもない。
初めて見る代物なのに、前々から知っていたような気がするのは、名機の証拠か。
「何か色々きらびやかだな、宝石みたいなのもついてるし」
「本物よ、それ」
「うおぅ」
ボディを撫でていると溢歌がさらりと言うので、思わずのけ反ってしまった。
「よくわからないけど・・…物凄く高いんじゃないのか、これ」
サファイアらしきものを中心とした、ボディをきらびやかにする緑や碧の宝石がいくつも埋め込まれている。日差しの当たる所にケースごと移動させると、その蒼いボディはまるで深海のように日の光を吸い込み、いくつもの宝石が水面を照らすように輝いていた。
「凄い……見てるだけで、吸い込まれそうだ」
比喩じゃなく、そんな気がした。深い、深い青。このギターの周囲だけ、まるで時が止まったように存在していた。
「これが、溢歌の宝物?でも、どうしてこんな物……」
ただの飾り物のギターじゃないのは、ネックの部分を見れば判る。使い込まれた後がしっかり残っているし、弦を止めるヘッドの部分も数え切れないほど巻いている。さすがに張ってある弦は錆びていたけど、これは手入れの仕方を溢歌が知らないからだろう。俺も弦の交換なんて、自分でほとんどした事がない。前にイッコーと青空に教えてもらったけど、上手く張れたのかすらよくわからなかった。
「大切な人に貰ったのよ。私のお父さん」
「えっ」
「と言っても、単に母親の再婚相手だけれど。でも、父親というより、初恋の相手って言った方が正しいのかしら。どちらの感情も、あの人には抱いていたわ。だから、家族と言うにはニュアンスが違うわね」
今日聞かされた身の上話で、一番驚いた。と同時に、溢歌の話すその相手にほんの少し嫉妬してしまう。そんな自然な感情が、少し可笑しかった。
「残念ながら私にはギターは弾けないから、宝の持ち腐れになってしまっていたの。本当なら、付きっきりで教えて貰えるはずだったのに」
溢歌は庭の先の遠くを見つめ、悲しそうに呟いた。あえて俺は、詮索しない。
「これ、こっちに来る時に一緒に持って来たのよ。これしか持って来なかった、が正しいかしらね」
「こんな高そうな物、誰かに知られたら絶対に盗られてたぞ」
どう見てもこのギター、実際にステージの上で使われていた物にしか見えない。それも相当の値打ち物だ。溢歌にこれを渡した人は、有名なミュージシャンか何かだろうか。名前を聞いた所でそういうのに疎い俺が知るはずもないから、追求はしない。
「弾いていいのか、これ?」
「あげるんだから当たり前じゃない」
少しびびってる俺に、しれっと答える溢歌。こんな物貰った所で、いざ実際にライヴで使えるかと言うと、自信がない。第一まともにギターも弾けないっていうのに。
「あ……これ、エレキだからアンプがないと駄目だな。アンプはないか」
「スピーカー?ないわよ」
あっさり言われて少し落胆。試しに音を出してみたかったのに。弦を弾くだけならなくてもできるから、後で試してみよう。
さっきからこのギターを眺めていて、引っかかっていた事に気付いた。
「しかしこれ、青空のギターに似てるな」
「そう?」
「うん、外観が。ボディの色の深みは比べ物にならないけど、同じ型なのかな」
見た目の大きさもさほど変わらない。値段は全然違うと思うけども。
「青空クンに弾かせてみる?」
「いいのか?俺にくれるんだろ?」
「二人なら、どちらでもいいわ。どうせ私が持っていても押入の肥やしにしかならないし。でも、見た通りとても高級な物みたいだから、ちゃんと保険に入っておいた方がいいわよ」
「何だかな・・…」
物凄い物を受け取ったような気がする。
「あと、これ」
溢歌が少し席を外して、先程より二回りほど小さいハードケースを持ってきた。
「これも一緒に貰ったの。私には使い道がよくわからないものだけれど」
「どれどれ」
鍵を貰って開けてみると、中にはいくつもエレキギター専用の古いエフェクターが入っていた。色々種類が分かれてるようだけど、俺には皆目見当もつかない。
「こりゃ、後で青空達に見て貰った方がいいかもな。俺一人じゃ知識に欠ける」
こんな事ならもう少し真面目に二人にギターの話を聞いておくんだった、とお手上げ。
「試しに後で弾いてみるか。その前に弦を張り替えなきゃいけないか」
「私がいない時にね」
まだ溢歌は、音楽を聞く事に抵抗あるのか困った顔で答えた。
「アンプもないしな。俺もおまえにちゃんと聞かせられるよう、練習しとくよ」
これまでギターなんてキュウに勧められて嫌々弾いていただけなのに、随分現金なもんだ。動機ってのはこんな単純なものでいいのかもな。
「なあ、こんな大層な物、本当に俺が受け取っていいのか?好きな人に貰った、大切な宝物だろ?」
改めて溢歌に確認する。正直、俺にはもったいなさすぎるほどの代物だ。これからも溢歌が大事に持っておいた方がいい気もする。
そんな俺の心遣いを悟ったのか、溢歌は俺の目を見て柔らかく微笑んだ。
「だからよ。私の大切な宝物を、好きな人にあげるの。何も私がいなくなった後の形見にしてだなんてつもりはないわ。私が一歩、前へ進むために、黄昏クンに贈るのよ」
「溢歌・・…」
本当に、ただ本当に、溢歌が希望を持ってくれたのが嬉しい。あまりに感激してしまって、無意識に俺は溢歌の体を抱き締めていた。
まるで子供みたいに細く、小さな体。温もりがしっかりと伝わって来る。
俺達は、生きているんだ。そう、強く実感させられた。
「これ、大事にするよ。一生、大切にする。おまえと一緒に」
「……嬉しい……」
溢歌が俺の背中に手を回して、強く抱き締め合う。
深海の色をしたギターは日射しを吸い込み、埋め込まれた宝石が星のように輝いていた。