→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第3巻

   064.誰がために鐘は鳴る

 貰ったギターとエフェクターはバイクで持って帰れないので、一旦俺の家に電車で戻る事にした。
 駅前まで来ると、商店街の年末の賑わいが嫌が応にも目に入って来る。溢歌はこれまでと変わらず、騒がしい場所に来ると眉がハの字になる。溢歌の心の氷を溶かすには、まだまだ気の遠くなるような時間がかかりそうだ。
 大して電車は使わない身とはいえ、今日は昼間でも混んでいる気がする。溢歌は海側の扉の前を選んで、ずっと窓の外ばかり見てる。そうしないと落ち着かないからか。
「怒ってる?」
 水海で下りて改札を抜けた所で、先を歩く溢歌の背中に声をかけた。
「怒ってないわよ」
 立ち止まり、俺と歩幅を合わせて歩く溢歌の顔は仏頂面に見えなくもない。
「黄昏クンが気の乗らない時に、私が誘ってみたのが悪かったのよ」
 溢歌にギターを貰った時、感激のあまり抱き締め合ったもののそこから行為には至らなかった。キスをしようと思ったら、愁の泣き顔がちらついてしまったせいだ。
「一昨日の事もあるからおあいこよ。もちろん、何も考えずに抱き締めてくれるのが一番いいわ。でも、分別くらいきちんとわきまえているつもり。全ての問題を解決しないと、私の事を真っ直ぐに見れない事ぐらい、お見通しよ」
「悪いな」
 きつい言い方に少しへこんでしまう。今溢歌とSEXしてしまったら、本当に愁の事を急速に忘れてしまいそうで怖かったんだ。
 それに、一昨日つい溢歌を押し倒してしまいそうになったのも、冷静に考えれば千夜も同じように組み敷かれたのかと思うと、一気に萎えた。相手に痛みを与えてしまうようなSEXは、したくない。
「俺は、こうして溢歌と肩を並べて歩きながら、気さくに喋っているだけでも幸せだよ」
 心の底から、そう思う。
「黄昏クンって、本当に義理固いというか、平穏を望んでいるのね」
 溢歌に言われて、改めて自分のこれまでを振り返ってみて、納得してしまう。
「だな。何でって言われると、一人でいつもいると後ろ向きになってしまうからなんだろうな。青空と一緒にいる時とおまえと一緒にいる時、何も変わらないもんな」
 愁とはどうだったろう、と振り返ってみると、付き合うまではひたすら俺が排除してて、その後は一気にラブラブになった感じだ。そう考えると、溢歌といる時と愁といる時、俺の心の持ちようは随分と違う事に気付く。
「でも、青空クンは私といる時、いつもしかめ面をしてた気がするわよ」
「そりゃおまえが迷惑かけてたんじゃないか」
「ひっどーい!……ああでも、随分悩ませちゃったかもしれないわね」
 怒ってはみたものの、心当たる節がありすぎるのか、そのまま押し黙ってしまった。
「ホントなら、青空もおまえに対して俺と一緒にいる時のような、安らいだ気分をいつでも味わっていたかったはずさ。詳しくは俺も聞きたくないけど、これからも青空とおまえは理想な関係でいられると思うよ」
「敵に塩を送ってどうするの」
「そんなつもりはないんだけどな」
 青空を恨んだ時もあったとはいえ、今は随分と冷静に青空の気持ちを受け止められる。正直、俺も愁とこいつらみたいに別れられれば、後腐れなくて済んだのに。
 全ては俺が招いてしまった事だから、逃げる訳にもいかないか。
 家のマンション近くの、以前青空と月を見上げたT字路で溢歌がほんの少し足を速めて先を行き、ワンピースの裾をたなびかせてくるりと振り返る。
「私だって、いつまでも一緒にいられるか分からないわよ?」
「冗談でもそんな事は口にしないでくれ」
 力無く笑い飛ばす。さすがに今の状況で溢歌までいなくなってしまうと、壊れそうだ。
「そのためにも、歌をもっと頑張らなくちゃね♪」
「ああ、おまえの胸に届く歌を唄うのが俺の今の存在意義だからな」
 あえて噛み合わない受け答えをして、溢歌の頭を撫でる。俺もさほど背が高くないけど、溢歌の髪の上に手を置くのにちょうどいい高さなのでつい手が出てしまう。しかも髪触りが柔らかくて、撫でてる俺の方が気持ちいいので余計に。
「頭撫でられている時、何だか凄く自分が子供に思えるわ」
「実際俺より随分年下なんだから子供だろ」
 突っぱねると、頬を膨らませる溢歌の横顔が可愛かった。
 家に到着する頃には、太陽もすっかり傾いていた。向こうでのんびりしていたし、遅めの昼食を摂った後だから。本当に冬場は太陽が沈むのが早い。
 持って帰ったギターを部屋に置く。俺には畏れ多くてこれで練習する気にもなれないので、押入に入れておこうかと思ったけれどさすがに止めておいた。今度、イッコーにでも相談してみるか。
 ふと、部屋の中に置いておいたみょーの描いたキャンパスが目に入った。部屋の隅に普段から置いてるとはいえ、今これをじっくり見る気力はない。まだこの家には愁と一緒にいた名残りが残ってる。これらを俺は一つ一つ潰していった方がいいのか?
「喋らなかったら、すぐ暗い顔になるのね」
 気付けば後ろにいた溢歌に指摘され、力のない笑みを返す。こればかりはさすがにどうしようもない。
「俺ちょっと青空に電話するから、溢歌はくつろいでて」
 台所へ移動して、青空に連絡を入れる。今、千夜絡みの話だと絶対に俺は憤るので、そばにいる溢歌に不快な思いはさせたくない。
 長い何回かのコールの後、青空が電話に出た。
「もしもし、黄昏?」
「よかった、留守録かと思った」
「最近どうにも思い込んでる時間が多くて、反応が遅れるんだよね」
「考えすぎで車に轢かれるとか勘弁してくれよ」
「いやほんとに、注意しとくよ」
 青空の笑い声を聞いて、俺の心も和らいだ。気を入れ直してから、本題に移る。
「で、千夜を襲った奴は捕まえられたのか」
「今のところ、芋づる式に半分以上は。千夜が襲った相手の顔と特徴はしっかりと覚えていたから、警察も行動が早かったみたいだね。襲ったグループの中にはその時の写真をデジカメで撮ってた奴らもいて――それが逆に証拠になって、捕まえるのに一役買っているのが皮肉だよね」
 考えられない奴らの行為に、怒りを鎮めるために大きく息を吹き出す。
「で、奴等の中には裏で風俗業やAV系……そういうのと繋がってる奴がいるらしくて、被害者を脅してそういう業界に引きずりこむような、そんな事も過去に何度かやっていたらしい。それに関してはまた別件になるので僕達が出来る事は無いけど」
「……漫画やドラマみたいな世界だな」
「僕も、これが現実の行為だなんて思いたくないよ」
 青空が俺の気持ちに共感する。こんな事、あっちゃいけない。襲われた被害者の、千夜の気持ちはどうなる?それを考えるだけで、胸が痛んだ。
「で、首謀者と言うのかな……最初に焚き付けて千夜を襲おうとした奴ら、つまり最初のグループ6人は全員捕まえる事が出来たって。その6人はこの前ジゴ……だっけ、彼らが活動してるライヴハウスに出入りしてたバンドのメンバーだったから、捕まえるのも早かったよ。イッコーのタレコミも効いたしね」
「それは……よかった、ホントに」
 ほっと胸を撫で下ろす。と同時に、疑問が一つあった。
「そういや、そのジゴって奴は、6人の中にいたのか?」
 やたらと背の高い、オカマ口調の目立つ男。絡まれた時の事が妙に印象に残ってる。千夜の事も何か知っていたような口振りだった。
「いや……いなかったって。僕が千夜を助けに部屋に飛び込んだ時にもいなかった。どうやらあの時のメンバー数人が、勝手に今回の凶行に及んだみたい。警察の事情聴取は受けたみたいな事は聞いたけど、今回の件とは無関係みたいだから何とも言えないね」
「そうか……一回、直接話を聞きに行った方がいいのかもな」
「それはまた今度だね。その時には呼ぶと思う。イッコーも連れて」
 あいつが悪いのか悪くないのかは判らないけど、あの時のラバーズでのいざこざが今回の事件の引き金になってるように思える。だから、直接会った方がいい。
「俺も明日にでも、見舞いに行った方がいいかな?」
「どう……かな。僕は昨日面会出来たけど、事件に巻き込まれた一人だから。イッコーや君とはもう少し時間がかかると思う。すまないけど」
「そっか。年が明けてからでも俺はいいよ。……で、どうだった、元気だったか?」
 自分でも変な質問をしてるな。青空は別段気にする様子もなく返して来る。
「数カ所あった打ち身や痣は随分引いてきてるみたいだよ。顔には手を出してなかったから、ぱっと見は元気そうに見えたけどね。……でも、いつもなら僕に突っかかってくるような態度の千夜は、すっかり陰を潜めてた。言葉少なで――僕も、事件の話題はなるべく避けて話すようにしてたけど。バンドをやってる時の千夜は、そこにいなかったよ」
 髪の毛を逆立てて、いちいち俺に絡んで来たあの千夜の姿はもう見れないのかと、少し悲しかった。あいつは俺達の目の前にいない時は、普通の女子高生だったんだ。
「毎日キュウが見舞いに来てくれてるから、寂しくはないって言ってた。学校の級友達には――まだ話してないみたいだね。今ちょうど冬休みだから、学校で変な噂になるとかそういうのはないけど、3学期はちゃんと通えるかどうかはわからないって。もうすぐ卒業だから、心配しなくていいって言ってたけど」
「そういや大学はどうするんだ?受験できるのか?」
「一応……受ける事は受けるって言ってた。退院してからは、家に篭もって一人で勉強してるって。その方が気が紛れるし、こんな事で将来を諦めたくないからって」
「そっか。強いな、千夜は」
 その言葉を聞けてとても安心した。あいつは俺なんかの何十倍よりも強い。
「バンドはどうだ?できるのか?」
 ずっと気になってる事を訊いてみる。千夜が戻って来れるかどうかで、今後のバンド活動も大きく変わって来る事になると思うから。
「さすがにそれは聞けなかったよ。だって、バンドの時の格好で犯されたんだもの」
 すっかり失念していた。青空の答えを残念ながら受け入れるしかない。
「ただ、言ってた。『こうなったのはバンドのせいじゃないから、心配しないで』って。気休めに僕に言ってくれたんだと思うけどね。千夜自身、心の中でそう思いたくないんじゃないかな。そうしたら、自分のこれまでやって来た事を全否定してしまう事になるから」
「……強いよ、千夜は、本当に。俺が羨ましくなるくらいに」
 後ろ向きでステージに立っていた過去の自分が恥ずかしく思えてしまう。何でそんなに前向きになれるのか、俺には到底想像もつかなかった。
「でも、これからが大変だろ?捕まえた奴等の裁判とか」
 何となく気になった事を訊いてみる。逮捕した連中、全員檻の中にぶち込めるのかな。
「示談には・・ならないよね、強姦罪なんだから。千夜は未成年だし、相手の連中にほとんど未成年がいないみたいだから、裁判で千夜が苦しむ事は無いんじゃないかな。……ごめん、僕自身も詳しくは解らないや。その辺は、千夜の両親がしっかりやってくれればいいんだけど」
 青空は参った口調で答える。自分で相手に制裁を加えられないやり切れなさもあるんだろう。しかし、青空のため息の意味はそれだけじゃなかった。
「――ねえ、黄昏、落ち着いて聞いてくれる?」
「何だ?改まって」
「これは直接、千夜の母親から聞いた事なんだけど――他の人には絶対言わないようにしてね。イッコーには、後で直接僕から言うし」
「何だよ、じれったいな」
 思わず笑ってしまう。けどその数秒後に、笑みが凍りついた。
「千夜は、過去にも同じ目に遭っているんだよ」
「……は?」
 想像以上の言葉に、俺は素っ頓狂な声を上げた。
「落ち着いて聞いてね。千夜は中学3年の頃、クラスメートの男子生徒達に集団暴行を受けている過去があるんだよ」
「はっ、んなっ、何だ、何だよそりゃあ!!?」
 思わずテーブルを叩いて、椅子から飛び上がってしまう。
「ちょっと待て!千夜はそんな事一言も……言う訳ないよな……」
 一瞬にして血が昇った頭から血の気が引いていき、崩れるように椅子の背もたれに体を預ける。受話器を耳元から離して、しばらく呆然と天井を見上げていた。
 これまでの千夜との思い出が、目の前にフラッシュバックされる。あんなに男に対して攻撃的だったのも、あんな女っ気を感じさせない格好をしていたのも、病的なまでにドラムや音楽に対して妥協を許さない態度でいたのも、全部それが元になってたのか?
 思い当たる節がありすぎて、冗談とも全く思えなかった。
「じゃあ、それじゃあ千夜は二度も・・…って事になるのか?何だよそれ、神様なんてどこにもいやしないな……」
 ショックが大きすぎて、放心状態になってしまう。もしかして千夜はずっと、苦しみを他人と分かち合う事をしないで一人であの小さな体に溜め込んで来てたのか?そう思うと、とてもやり切れなかった。
 ふと視線を部屋の方に向けると、心配そうな顔をした溢歌が俺の事を見ていた。大丈夫、と小さく声をかけ、電話に出直す。
「かなりショックみたいだね」
「当たり前だろ。青空は何ともないのか」
「無い訳無いじゃない。ただ、僕がそれを聞いたのは千夜を病院に運んだ後だったから、時間をおいて冷静に受け止められているだけだよ」
「悪かった。……そうか、千夜にそんな事があったんだな」
 一心不乱にドラムに感情を叩きつける千夜の姿が、頭から離れない。何であんなにも攻撃的でヒリヒリした音を出すのか、今やっと解った気がした。
「その時の件はもう既に終わってるんだけどね。またか、という思いがどうにも母親の方に見えて、少し気分が悪かったかな。今日父親が帰国して、会いに行ってるらしいよ」
「・・…なあ、何で千夜ばかり狙われるんだろうな」
 素朴な疑問が湧く。見れくれの良さなのか?
「昔の事は、学級委員長をやっていた千夜への逆恨みらしいよ。性格的に、昔から完璧主義者だったみたいだしね。時期的に、今とちょうど似たような時期だったんだって。実家から離れた所のお嬢様学校に通う事になっていたのは、決まっていたらしいけど。だから、千夜の昔の事を知っていた人は高校にはいなかったみたいだね」
「あれ、じゃあもしかしてジゴの奴が言ってたのは……」
「うん、多分同級生か何かじゃないかと思う」
 青空も俺と同じ考えをしていたようだ。
「千夜は相手の外見が変わっていてわからなかったんだろうね。元から知らなかった可能性もあるけど」
「で、向こうの方は千夜の変貌に気付いたって訳か」
 そこでふと、思い当たった。
「なあ、もしかして、ジゴがそいつらを焚き付けたって事はないか?」
「え?……いや、焚き付けたってのは無いんじゃないかな。でも、後で千夜の昔の事を他のメンバーに話した可能性はあるかも」
 それが今回の事件の発端だとしたら、許せないものがある。
「それに関しては、直接訊くしかないだろうね。でも直接手を下した訳でもないし、寝耳に水だった可能性もある。気持ちは解るけど、僕らが手を出す事は出来ないよ」
「解ってる。でも、一発会って殴ってやりたい」
「落ち着いて黄昏。とにかく今は、警察の対応を待とう」
 いきり立った所を、青空に窘められる。今は何でもいいから、怒りの矛先を誰かに向けたかったのかもしれない。
「退院する前に、面会が出来るようになれば一度二人にも見舞いに来て欲しいな。退院後、更に受験後になってしまう可能性もあるけど」
「ああ、解った。だけど、これからどんな目であいつの事を見ていいのか分からないな」
 今回の件だけじゃなく、そんな過去を聞かされてしまうとこれまでのように千夜と接する気にはなれない。どうしても哀れみの目を持って見てしまいそうで。
 そんな俺の気持ちを察してか、青空が俺に言う。
「これまでと一緒でいいんだよ。きっと千夜も、特別な目で見られるのは嫌うはず。ただ、僕達ももう少し、千夜に優しくなれると思う。千夜の苦しみを、バンドを通じて背負ってやる事も出来ると思うんだ」
「ああ……そうだな。そうありたいもんだ」
 また、変わらずにバンドを続けられるように。それが今の切なる願いだった。
「ところで話は変わるけど、愁ちゃんの見舞いに行ってきたよ」
 突然愁の話題に変わって、体温が急上昇した。早く話題を終わらせたいけど、そうもいかない。
「ああ、どうだった?俺はみょーにしこたま怒鳴られたよ」
「キュウと一緒に行って、僕は二人のやり取りを隣で眺めてただけだけどね」
「面会できたのか?」
 思わず上ずった声で訊いてしまう。
「うん、思っていたより元気そうだったよ。笑顔も見せてた」
「そうか……良かった」
 心から安堵する。例え見かけだけでも愁が元気そうなら、それでいい。
「あんまり、話題が作れなくて困ったよ。バンドの話をする訳にもいかないし、それ以外の話題をした事なんてほとんどないしね。黄昏の事も一切口に出来ないから、世間話しようにもテレビや雑誌なんて僕読まないし、流行りにもついていけなくて」
「まるで俺みたいだな」
 二人共世間から隔離しすぎだ。俺も愁とそんな話題で盛り上がった事もほとんどない。
「キュウがいてくれて助かったよ。見舞い用のフルーツ、自分で食べてたけどね」
「あいつ、自重って言葉を知らないのか」
 揃って苦笑してしまう。どうにも思考回路が変な所がある、キュウには。
「黄昏、愁ちゃんの事、これからどうするの?」
 青空にストレートな問いをされてしまい、返答に困った。
「どうするも何も……俺が教えて欲しいよ。どれだけ考えても、自分の方から動くってのが、無理な気がしてならないんだ。直接会って頭を下げた所で、どうしても空虚な言葉になってしまうようでさ」
 まさしく八方塞がりだ。俺があいつにできる事は、もしかしてもうないのかもと思ってしまう事もある。無論、そんな別れ方は寂しすぎるし、俺も望んではいない。
「あいつの心を傷つけてしまった俺が、あいつを心から救う事なんて、多分もうできないんじゃないかって思う。友達のキュウの方が、癒やしてやる事ができる気がするよ」
「だからと言って、全て投げ出す事も出来ない……か。不思議だね。何か嫌な事が起きると、全て投げ出して逃げてしまうのが昔の黄昏だったのに」
「悪かったな」
 確かに青空の言う通り、自分自身を振り返るとそれで青空にどれだけ迷惑かけたか。愁の時だけそうならないのは、やっぱり相手が愁だからなんだと思う。
「愁ちゃんの事も千夜の事も、追って連絡するよ。最近キュウと会う事が多いから、愁ちゃんの事も色々伝えられると思うし」
「悪いな」
 ホントに昔から俺は青空に頼ってばかりだ。
「溢歌に替わるか?少し落ち着いた今なら話せるだろ?」
「え?あ、でも、うーん……」
 受話口の向こうで青空が迷っていると、知らない間に隣に来ていた溢歌がひょい、と俺の携帯電話を横取りして、勝手に電話に出た。
「もしもし、青空クン?」
 青空の驚く声が離れた受話口から聞こえる。溢歌は俺に視線を向けたまま、会話をしながらそばの椅子に座った。話の内容を聞いていたいものの耳をそばだてるのも悪いと思ったので部屋に戻ろうとすると、溢歌に素足でズボンの裾を引っ張られた。
 仕方ないので、冷蔵庫の中のジュースをコップに注いで溢歌のやり取りを隣で眺めていた。気にくわないとは思わないけど、何だか面白くない。
「それじゃあ、黄昏クンに替わるわね。また会いましょう」
 5分程話した後、溢歌は俺に携帯を渡した。
「変な別れの挨拶だな」
「そうかしら」
 感想を述べた後、電話に出る。いい加減長電話になってしまった。
「じゃあ、また何かあったら連絡入れておいてくれ。俺もいつでも出るようにするから」
「随分と印象が変わったね、黄昏」
「多分きっと……溢歌のおかげさ。またな」
 少し照れ臭そうに返して、電話を切る。ベランダの外はすっかり日が沈んでいた。
「今日はどうする?また泊まっていくか?」
 残りのジュースを注いだコップを溢歌に差し出し、訊いてみる。
「そんなに私を逃がしたくないの?」
「ああ、起きたら居なくなってるなんて二度とゴメンだからな」
 よっぽど真面目な顔で言ったんだろう、俺の顔を見て溢歌はおかしそうに微笑むと、グラスに口をつけ、ふくよかな自分の胸に手を当てた。
「私は逃げないわ。黄昏クンの心の中に、いつもいるもの。そして、私の中に黄昏クンも」
 その言葉の意味を、俺は後になって知る事になる。


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