→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第3巻

   065.皿の上の鍵

「黄昏クンに、これを渡しておくわ」
「鍵?」
「そう、私の持っているこれと同じ物。おじいさんが使っていた、私の家の鍵よ」
「いいのか?大事な遺品を俺に渡して」
「置いていても意味がないでしょう?黄昏クンは、私の家にこれから何度も足を運ぶ事になりそうだから。いきなり押しかけて私がいない時でも、入れるように」
「そうか。ありがたく受け取っておくよ。これからは溢歌と一緒にいるから、あんまり使う機会はないと思うけどな」
「青空クンにも渡していないんだから。その意味、ちゃんと理解しなさいよ」
 翌朝、溢歌を家に送り届けた時に合鍵を手渡された。その鍵はやけに冷たく、ひんやりとしていた。おじいさんが亡くなった後は、ずっと冷蔵庫の皿の上に乗せて保管していたらしい。
「思い出をそのままの形で閉じこめておきたかったからよ」
 溢歌はそう呟いた。じゃあ冷凍庫にすればいいのにと返すと、氷漬けにするのはまた意味合いが変わるからと答えた。俺にはよく理解できない。
「この後用事があるからこれを食べたら帰ってね」
 朝飯を食べていた時に突然言われて、手に持っていた味噌汁のお椀を零しそうになった。
「用事って……何かあるのか、おまえにも」
「失礼ね。あなたが用事を作ったんじゃない。私を前に向かせたから」
 それ以上、溢歌は俺の質問に何も答えなかった。訝しげに思ったものの、仕方ない。今の答え方だと青空に会うつもりでもなさそうで、俺も詮索するのを止めた。
 ここ数日一緒にいて、気付けば隣に溢歌がいる事が自然になっている自分に気付く。そして、いつまでも二人で一緒にいたいと願っていた。一度でも手放してしまうと、またふらりとどこかへ行ってしまうんじゃないかと、心のどこかで思っていたのかもしれない。
 今一人になってしまうと、愁と千夜の事ばかり考えてしまう。辛い思いばかりで一日を過ごすのは、もうこりごりだ。あの時溢歌を選んだ時点で、俺の心は依存しまくってる。
「溢歌、正月は、初日の出でも見に行かないか?」
 どうしても名残惜しいので帰る時に誘ってみると、溢歌はあっさりとした顔で答える。
「この海から見える初日の出に敵うものは無いわよ」
「……そうか、それもそうだよな。じゃあ、初詣でいいや。有名な神社とか知らないけど、調べとくよ」
「どこでもいいけれど、人の少ない所をお願いね」
 いつも通りの返答に苦笑しつつ、名残惜しい気持ちを堪えてその場を離れる。途中何度振り返っても、視界から消えるまで溢歌が大きく手を振っていたのが印象的だった。
 今日は空も雲っていて、海岸沿いは冷える。いつもの岩場を見遣ってから、颯爽とバイクの元へ戻った。そのまま家に直行しようと思ったら、自然と愁の入院してる病院へと向かっていたのは、あいつの事が気になって仕方ないから。
 病院のロビーに入って受付に面会できるか聞こうと思った所で、俺の足は止まった。近くにいると解っていても、直接会う勇気はなかった。気持ちの整理はとっくについてる。だからこそ余計に、俺から出向いちゃいけないんじゃないかって思ってしまう。
 自分のしでかしてしまった事に後悔の念を抱いたまま、逃げるようにその場を離れた。そのまま直帰しようとバイクを走らせていたら、通りがけに千夜の入院してる病院が見えたので、立ち寄ってみる。
 千夜とはちゃんと顔を合わせようと思ったら、面会は断られた。残念だけど仕方ない、事前に連絡も入れてなかったし。俺が来た事だけを本人に伝えてくれと言い残して、すぐに引き上げた。
 ラバーズやイッコーの家に寄っても良かったけど、乗り気がしないので途中コンビニに寄って適当に酒と飲み物を買って、マンションに戻った。一人で家の玄関に入って扉を閉めた時にようやく、一人になった寂しさが襲って来る。と同時に、忙しかったここ数日間に一段落がついた事で、一気に疲れが出てきた。
 買ってきたばかりの酒を手にして、ベッドの上に体を投げ出す。目の前に広がる天井を見上げていると、ここ一週間の出来事が走馬燈のように流れてきた。
 激動だったと言っていい。つい先週は、このベッドの上で愁と愛を確かめ合ったんだっけ。シーツを先日替えたばかりの一人のベッドは、とても広く感じた。
 過去を振り返ると、胸がとても痛い。神様が俺に与えた試練なんじゃないかとさえ思えてしまう。いや、愁の事は全て俺の責任か。
 溢歌を選んだ事は、間違ってない。現に今の俺は、未来に漠然と希望を持てている。とはいえ、現実は千夜があんな事になって、バンドの今後の見通しさえ立たない現状だ。早く次のステージに立って人前で唄いたい気持ちはあるのに、その機会がいつになるのか。
 この一月、樫木屋の下でイッコーと弾き語りをしていたのは、今思えばとても身になっていたと思う。バンドが再開するまで、イッコーを誘ってみようか。きっと驚くぞ。
 そんな夢想をしている間は、とても楽しい。目を閉じて、現実に足がついていない方が気が楽でいい。夢を見るだけならいくらでもできる。今はただそうしていたい。
 手元の酒を開けて、半分くらい一気に喉に流し込む。久々の酒のせいか酔いが回るのも早い。全部飲み切って寝転がっていると、急速に意識が失われた。
 夢を見ている。でも、その夢の意味を理解できるのは眠っている時だけ。目が覚めると、あれだけ回転していた頭がぼんやりとして、夢の記憶さえ薄れていく。
 回帰する所は全て現実。その現実を、ずっと受け入れる事ができないでいた。実際の所、今もできていないと思う。ただ、自分を生かしてくれた人達は、確かにそこにいる。
 だからこそ、認めなくちゃいけない。今ここで生きる事を。
「ん……何時だ、今」
 目が覚めると、辺りは真っ暗だった。深い眠りに落ちていたのか、シーツに涎が零れて濡れてる。毛布も被らずに寝たせいか、少し体が冷えていた。トイレへ行った後、顔を洗う。部屋に戻って来ると、改めてこの家は一人だと広すぎると感じる。
 時計を確認すると、夜。何件か携帯に着信が入っていた。イッコーに青空にキュウ。それとラバーズからも電話があった。どうせ年末の年越しライヴを観に来ないかってマスターの誘いだろう。今年は行く気になれないので、留守録も無視しておいた。
 イッコーはキュウと愁の見舞いに行って来たらしい。年越しまでに一回会おうって言ってたけど、どうするかは決めかねた。また明日、溢歌の家へ行ってから考えよう。
 青空は、今日の千夜に関する報告。事件に関与した連中はほとんど検挙できたらしい。ホント、警察には一人残らず問答無用で捕まえて欲しいもんだ。ジゴに関しては、年が明けてからみんなで出向いてみようと言う事になった。
 寝起きで返事が面倒なので携帯を充電器に戻して、再びベッドの上へ。電気もつける気になれず、ただ暗闇を見つめていた。
 ただ、静かで、暗い。愁へのわだかまりを胸に抱えていても、四方八方から押し潰される暗闇のプレッシャーは感じなかった。暗闇の壁に目を向けても、恐怖に脅える事もない。
 自分を引きずり込もうとしていた暗闇は、自分自身が生みだしていたのかと思う。今は消えていても、また絶望に覆われてしまった時は、鎌首をもたげるのかな。
 無音に耳を傾けていると、心の中のメロディも無音になる。とても静かで、時が止まっているようで、永遠に似た感覚。余計な事を考えずに、心も平静になれる。
 今はひたすら、自分の過ちを無に流す時を欲しがっている。だけど、人生は万事上手く行くはずがない。妥協したり諦めたりしなけりゃいけない事も、山ほど出てくる。
 その中で俺は、本当に大切なものを拾えてるんだろうか?何が正しくて何が過ちなのかは、自分の心に問い掛けてみるしかない。
 俺が存在する事で誰かに迷惑をかけているなら、逆に俺がいる事で救われてる人もいるのかな。俺達のライヴを観に来てくれてる奴らは、どれだけ俺達の曲を頼りにしてるんだろう。そしてその想いが、俺を生かす理由に繋がっているのかどうか。
 すぐに答えを見つける事はできない。でも、俺はまだ唄いたい。ステージの上に立って、みんなの演奏に合わせて青空の曲を唄いたい。その歌声が、聞いてくれてるみんなに――愁に、そして溢歌に届いてくれれば、そんなに嬉しい事はない。
 それが俺の、存在理由な気がした。
 もう一本残っていた酒を開ける。今から溢歌に会いに行こうにも、まだ寝る前に飲んだ酒が残ってるからバイクにも乗れない。明日の朝にでも会いに行こう。きっと迷惑そうな顔で俺を迎えてくれるに違いない。
 そういやもう明日で今年も終わりなんだった。うちの小さなTVはすっかりオブジェと化していて、愁がいる時にもほとんどつけなかった。ただ小うるさいだけの時間を喰い潰すバラエティなんか観たくもないし、悲しい事や憤る事ばかりのニュースにも耳を傾けたくもない。だから、人の多い場所にいかないと年末という感じがしない。
 先週クリスマスを祝ったばかりなのに、もう年越しなんて。この1年振り返ってみると、色々ありすぎた。愁やキュウ、みょーや和美さんと出会ったのも今年だし、まだ溢歌とは出会ってから3ヶ月ほどしか経ってない。
 2年前の夏、バンドを青空に誘われて始めてから、俺の人生が変わった。そして今年の秋、溢歌と出会った時から今日までの間は、まるで物語の主人公になったような激動の時間だった。
 クリスマスライヴを成功させた所でスタッフロールなら、どんなに余韻に浸れたろう。現実は千夜と愁の件のダブルパンチで、グロッキーだ。溢歌がセコンドに付いてくれてるおかげで、何とかやっていけてる。
 俺の未来には、カーテンコールを行える大団円が待っているんだろうか。それとも全てが無になる、暗闇が待ち構えてるんだろうか。
 溢歌と一緒なら、どこまででも行ける気がした。
 クリスマスライヴで唄った最後の曲を口ずさんでみる。暗闇の室内に、俺の歌声が響く。アカペラの歌声は心の中で流れるバンドの伴奏に乗って、胸に届いた。
 愁に、謝らなきゃ。そんな気持ちが不意に強く湧いた。
 俺が前に進むには、愁に罪を赦して貰わないといけない。足枷――と言うには、あまりにも不憫すぎる。でも、もう俺には今後愁を愛する資格はない。一番残酷な方法で、愁の心を深く傷つけてしまったんだから。
 素直に諦めてもらう――なんてのも、土台無理な話だ。だからこそ愁は手首を切ってしまった。俺の事を愛しすぎた故の結果だ。
 いっその事、刺されてしまった方が楽なんじゃないかとさえ思える。死に際を溢歌に看取って貰えれば、もう思い残す事はない――なんて考えに辿り着く訳ないな。
 だからこそ俺と愁、どちらもが納得できる最善の結果で、終わらせたい。別れると言ってしまうと、もう二度と会えない気がするからその考えはしない。
 でも、俺一人の力じゃ到底できそうにない。まず、キュウに相談でもしよう。あいつなら、俺の事を嫌わずに手助けしてくれると思う。我ながら現金な考え方だけど。
 みょーや和美さんには・・…とっくに嫌われてるか。それはそれで、諦めるしかないのかもな。せっかく分かり合った相手と縁を切ってしまうのは、やっぱり寂しい。でも、いつも俺はこうして生きてきたんだと思うと多少は紛れた。かつての級友の顔も、今はまともに覚えちゃいない。
 でも、バンドの仲間や愁の事は、死ぬまで忘れないだろうな。そう思える相手に出会った事が、俺がこの部屋から飛び出して得られた最高の出来事だ。
 辛い事は忘れて、今は良い夢に抱かれて眠ろう。バンドの旗色は悪く、まだ先の事は見えないけど隣に溢歌がいれば、俺は挫ける事はない。
 明日朝一で溢歌を迎えに行こう。そう決めて、再びアルコールの勢いに任せて眠りにつく。空飛ぶ靴を履いて、バンドの仲間や溢歌達と旅に出る夢を見た。ぶっきらぼうだけど、まんざら悪い気がしていない千夜の見慣れた顔が、妙に印象に残った。
 自分の夢が、誰かに影響を及ぼせたらと思う時がある。そんな目覚めだった。
 きっと、俺が望む理想の世界は、俺の中にしか存在していない。現実には一人一人自我があって、そのぶつかり合いで社会が形成されてる。人と人との関係も。
 俺が望む一方的な理想は、望んじゃいけないのかな。でも、愁はきっと俺との理想の恋愛を望んでいたはずだし、拒んでしまったのは俺の方だ。誰も傷つけたくないなんて思いながら、平気で深く傷つけてしまうのが俺なんだ。
 つくづく酷い性格をしてると思う。他人の事を思いやっているようで、とても自己中心的だ。だからと言って、自分の信念を捻じ曲げる事をやめない。そして、他人の意見に耳を貸さず、とてもマイペース。
 これでよく嫌われていないもんだ。ただ、俺は一度興味を持ったものに対して病的なまでにのめり込む性質がある気がしてる。きっと愁の俺を求める気持ちと、俺が愁を求める気持ちが交錯し合ったから、そこに愛が生まれたんだと思う。
 じゃあ、今の俺の気持ちは?
 誰か一人を深く愛してるから、他の相手に愛情を注げないとか、そんな理性を俺自身持ってないように思う。でないと、溢歌の事を俺はこんな真っ直ぐに見てやれない。
 本当は、愁に嫌われたくないんだ。でも、俺はあの時溢歌を選んでしまった。溢歌の未来を選んだ事で、愁の希望を奪ってしまった。
 だから、俺も距離を取るしかない。愁と再びヨリを戻した所で、あっちが立てばこっちが立たない状況になってしまう。恋愛は、本当に難しい。片方が男なら、青空やイッコーみたいに友情を保てたままでいられるのに。
 俺が愁の中に求めているものと、溢歌の中に求めているものは違った。
 そして、二人が俺に求めていたものも、違っていた。冷静に振り返ると、相手の気持ちを考えて、この選択を選んだって事に気付く。
 いや、あの時溢歌を求める気持ちに嘘はない。ただ、溢歌の俺に求めているもの――それが、俺が自分に嘘偽り一つなく存在させてくれる証だった気がする。
 愁が俺に求めていたものは、愁の中にある完璧な理想の俺。どんなにだらしなくてもステージの上では輝いてて、自分の求める愛情を尽くした分、全て注いでくれる存在。
 俺はそんな愁の理想像も嫌いじゃなかった。どんなに厳しい言葉を投げつけても、見捨てないで俺の事をそばで見続けてくれていた見返りを、人生の全てをかけてでも返さなきゃいけなかったと思う。
 なのに選べなかったのは、どうして?
 理由は簡単だ。溢歌がいたから。
 これ以上端的で、絶対的な理由もない。ただ、強いて言えば、あの時愁を選んでいたとしても、心の中にはどこかに消える事のない引っかかりをいつまでも感じていた事だろう。
 その上手く形容できない感じは、歯車が微妙に噛み合わないような、欠けた部分にきっちりとはまらないほんのわずかの隙間みたいなもの。
 きっと俺は、あの絵本の主人公のように自分に合う欠片を探していたんだ。それが、生きる事にしがみついてまで得ようとした答えなんだと思う。
 その時にきっと、新しい世界が目の前に開けると信じてた。
 溢歌には――そう、俺という存在を変えてくれる事を望んでいたんだ。
 全く同じ気持ちを、溢歌は俺にも感じていたに違いない。もしかしたら、溢歌の青空に対する気持ちも、俺が愁に対する気持ちと似たようなものだったのかもな。
 気付けば夢の世界も終わっていて、遅い夜明けが窓の外に訪れていた。暖房をつけ忘れていたせいか、分厚い布団を被っていても体がひんやりしてる感じがする。そのせいか軽い咳が出た。こりゃ本格的に風邪の対策をしておいたほうがいい。
 未だに昨晩開けた酒が抜け切ってる感じがしないので、エアコンの暖房をつけてしばらく横になる。部屋の中に静かに響く機械音をBGMに、枕に頭を埋めて白いシーツを眺める。その向こうには俺があれだけ憎んでた白い壁が見えた。
 今思えばあれだけこの壁とにらめっこした日々も、今の現実の辛さに比べれば遙かにマシだったように思える。それだけ自分が井の中の蛙だったのか、ただ単に自分自身の中に肥大した絶望を飼ってただけなのか。ともあれ頭の中のスイッチをわざとオフにすると、まるで時間が止まったように俺の存在も消え失せ、一枚の写真のような視界の景色だけが世界の全てとなる。
 もちろん、こんな事に何の意味もない。ただ単に無駄な人生の時間を食い潰してるだけとも言える。そんなつまらない逃避でさえ今の俺には気休めになるのが悲しい。四六時中溢歌の事だけを想っていたい、そんなふうに考えても、頭の中が少し休みたいと言ってる。そんな動物的な思考回路が妙に可笑しく思えて、愛しかった。
 気が済むまでそんな状態を過ごした後、酔い覚ましにレトルトの味噌汁を用意する。愁は味噌汁を作るのが苦手だったので(どうやら分量を調節するのが根本的に下手らしい)、泣き言を青空に漏らしたら買ってきてくれたものだ。もちろん愁がいる時には飲めないので、袋のまま台所の戸棚に入れっぱなしになっていた。
 携帯の時計を確認して、ふと今日が大晦日な事に気付く。昨夜もこの一年を振り返ってみたものの、年が終わるという気配がしないのはクリスマス後に色々あり過ぎたせいか。
 今日は溢歌を誘って年越しそばでも食うか、それともすき焼きか。そんな事を味噌汁を啜りながら考えてると、この食卓を愁と溢歌の3人で囲んですき焼きを食べた時の事を思い出した。確か最初の修羅場だ。あの時の事を笑って、そして少し寂しく振り返る。
 俺がそんな時間を壊してしまったんだなと、改めて思う。けど、そこに後悔はなかった。
「ん、まずいまずい」
 味噌汁を飲み終えると体の芯まで温かくなって、眠気も和らぐと脳も目覚めてきた。とりあえず厚着をして、出かける支度をする。
 今日も糞寒い一日で、バイクに乗るのもいい加減辛い。1月には降雪量も増えるだろうし、乗れない日々が続くだろう。溢歌の家に居候するかそれとも呼び寄せるか、そんな近い未来の事を考えながら、海沿いの道をエンジン音と共に駆け抜けた。
 昼間はいいけど、そろそろ潮風がアウトバーンを作るようになってきたのでそろそろバイクも控えておいた方がいいか。後ろに溢歌を乗せてスリップなんて真似はしたくない。
 バイクを止めて港に降りると、大晦日とは言え、人間の作り出した暦なんてお構いなしに、いつも通りの大海原が広がっている。初日の出をありがたがるなんて、きっと人間以外の動物には考えられない行為だろう。そう考えると滑稽だ。
 溢歌の家の前に辿り着いた時、少し違和感を感じた。スライドの玄関戸をノックして手をかけると、鍵がかかっている。何度か溢歌の名前を呼んでみたものの、返事がない。出かけてるのか?
 しょうがないので昨日渡された合鍵の早速出番がやってきた。玄関に入ると留守にしてるのか、驚くほど静かな空間が広がっている。
「――溢歌?」
 大声で呼びかけたけど、返事はしない。靴を脱いで上がってみると、やはり何かがおかしい気がした。
 家の中は、溢歌という存在が最初からいなかったかのように静まりかえっていて、人の気配さえ感じない。
 居間のこたつの上に、折り畳まれた書き置きとおにぎりをラッピングしたお皿が置かれてあった。それを見て、何となく嫌な予感がする。
 またこのパターンかと思いつつ、書き置きを広げて中身を読んでみた。愁みたいな女の子全開の丸文字とは正反対の、古風な似合わない溢歌の達筆ぶりが見てとれる。
「私の大好きな黄昏クンへ
 しばらく留守にします。この家はしばらく無人になるので、黄昏クンが好きに使ってくれていいわ。煮るもよし、焼くもよし。大したものは置いてないけれど。
 私がそばにいないからと言って、ふて腐れて歌う事を止めてしまっては駄目よ。今はとても大変だと思うけれど、青空クンと一緒に困難を乗り越えて。何も手伝えない私は、ただ祈っている事しかできないわ。
 頑張ってね。

 黄昏クンの顔を見てると、私はとても安心しきっちゃうの。
 私は私のこれまでを無にしないために、初めて自分の足で一歩前に進んでみようと思うの。ずっと引きずってきた辛い思い出に別れを、ううん、その思い出と共存できるように。もちろん、黄昏クンとの過ごしてきた時間も一緒に。
 だから、しばらくお別れよ。いつ戻って来られるかは分からないけれど、岩場から見える春の海を見逃そうとは思っていないわ。
 戻ってきた時に、黄昏クンの歌声を聴きたいな。青空クンのギターの音色に乗せてね。音楽を耳にする事に苦痛でしかなかった私の心に、安らぎの光を照らしてくれたのはあなた達だから。

 追伸 初詣に一緒に行けなくてごめんなさい。
    その代わり、一年後に一緒に行きましょう。
    その時は黄昏クンがエスコートしてね。         じゃあね。」
 手紙を読み終えると、寂寥感が一気に襲ってきた。
 酷く冷静な俺がいた。いや、怒ってる。怒髪天と言うわけじゃなく、沸々とした怒りが腹の中に溜まっているのがわかる。
 でも、溢歌を責める気にはなれなかった。心のどこかで、こうなる事は薄々感づいてたのかもしれない。
 そのせいか、また裏切られた!と立腹して混乱する事はなかった。手紙の文面を目の前にしても、力任せに破く真似はしない。
 と同時に、心の中でどこか安心した気持ちも湧き上がる。何故なら今回は初めて、溢歌が俺に痕跡を残してくれたから。手紙の上には、溢歌の生きたいと願う気持ちがはっきりと篭められていたから。最後の追伸を見れば、その思いはよくわかった。
 溢歌が生きる事を肯定した、それだけで涙がこぼれそうになる。
 俺の目の前からこれで不意にいなくなったのは何度目だ?どこまでも自分勝手な姿にもう苦笑するしかないのに、それでもあいつの事を信じてしまう。どこまでもお人好しな俺だから?ううん、違う。溢歌だからこそ、文面通りにあいつがまたひょっこりと俺の前に変わらない姿で現れる事を願う。
 もちろん、これから俺一人でこれからの苦行を乗り越えられるのかと考えると急速に不安で心が黒く塗り潰される。そんな中でも消えない光は、溢歌の存在なんだ。
 きっと、歌だけじゃ乗り切れない。胸の奥に流れるメロディだけじゃ、俺は俺自身を救えない。心の中に誰かがいてこそ、強くなれる。それは青空や愁が教えてくれた。
 思わず熱くなった目頭を押さえ、手紙をそばに置いた。少し冷静になろうと肩で大きく息をついてから、台所で顔を洗いに行く。
 ブレーカーも落ちていて、冷蔵庫の静かな動作音も消えていたのが違和感の原因だったみたいだ。おそらく溢歌はしばらく戻って来ないつもりで、家を空けたんだろう。
 だけどその行動がかえって俺には安心できた。だって溢歌は、何の前触れもなく突拍子に事を起こす怖さをどこかに持っている人間で、例え自分の命を断つ事があっても、遺書を書いたり覚悟を決めて律儀な姿勢で現世に別れを告げるような性格でもない。
 この無音に近い空間に包まれたこの家は、再び俺と溢歌との思い出を作り上げるのを待つかのように、深い眠りについているように思えた。
 そのまましばらく溢歌とこの家で過ごした短い時間を振り返っていると、手紙の横に置いてあったおにぎりが目に入った。4つラップに包まれていて、どれもやや小さめで女性の手で握ったのがわかる。別の小皿に盛りつけられている漬け物が和室にマッチしていた。
「温めて食べてね♪」
 貼り付けられたメモ通りに一旦家のブレーカーを上げに玄関に戻り、レンジで温める。この俺の手間までわかってて溢歌が留守にしたのかと思うと妙におかしくて笑える。
 この家に似合わない電子レンジが置いてあるのは、爺さんが温めものがすぐ食べられるようにしてたんだろう。温める音が響いてる間、中で回転している皿をじっと見つめる。
 湯気の立つおにぎりを早速その場で頬張る。旨い。
 部屋に戻って、勢いに任せて全部食べる。適度な塩と巻かれた海苔のシンプルな味が、この世で食べたどの食べ物よりもおいしく思えた。
「ごちそうさま」
 きちんと手を合わせ、畳に背中を預ける。言い様のないほどの満ち足りた気分が、俺の全身を包み込んでいる。
 温もりは、確かにそこにあった。
 俺はそのキモチだけで、溢歌をいつまでも待ち続けようと思った。
 今はっきりと、俺の中に溢歌という楔が打ち込まれた。深く、深く。


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