→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第3巻

   071.君の涙を

 先週と違って、今週は雪がちらつくことが多かった。
 それは昨日までの話で、今日は低気圧か高気圧か何だか知らないけど、寒さはややマシになった分、雪が雨に変わって道端に積もった雪を溶かしていた。
 部屋に籠もってるから大丈夫――でもなく、最近は体調が悪い。夜が冷えると暖房を入れるので乾燥しやすくなってしまって、喉が痛くなる。ここのところ持病になりつつある気がした。加湿器を入れるような無駄遣いもしたくないので、ホテルの濡れタオルのようにハンガーに吊してるけど、効果のほどはよくわからないのが実情だ。
 溢歌がいないと、普段何をすればいいのかわからない自分がいる。
 この前からCD用の楽曲の録音が始まった。だけど俺の出番なんてのは歌入れがほとんどで、ギターパートは後回しだ。第一ヘタクソな俺がわざわざ弾くより、誰かが代わりに弾いたほうがいいんじゃないかと提案したら、キュウと意見が分かれて保留になってしまった。イッコーはクオリティの面で自分か青空が弾いたほうが、青空は多少拙くても俺が弾いた方がいいんじゃないかと言った。
 一日で一曲丸々録音する方法じゃなくて、先にリズム隊だけ本録りする形にしてあるので、俺はとりあえず青空達が演奏しやすいように仮歌を入れておくだけになった。青空のギターや千夜のドラムもない状態での歌録りなんて初めてなので、全く勝手がわからずに上手に歌うこともできなくて少しへこんだりしたけど、仮歌なのでそれでいいらしい。悔しい気持ちもあるので、それは本番の時に挽回しよう。
 そんなわけでスタジオにも入らない普段の時間は、自室で歌の練習をすることになった。ただイッコーも青空も自分達のことで忙しいのでわざわざ手伝いに来てくれる時間もない。 結果的に、白い壁に向かって歌っていたかつての時期と変わらない様子になる。
 それでも歌わないと不安なことばかり考えてしまうとか、歌っていて心が擦り切れそうになるほど苦しい思いをすることはなくなった。それはきっと溢歌が戻ってくることを心の支えにしているから。今でも千夜や愁のことを考えると気が滅入るのは変わってない。
 自分を見つめるより、他人のことを考えて悩むほうが楽なのか。どちらにしても、心に余裕が持てる日々は一行に来ない気はする。
 暗闇に脅えていた日々を抜け出して、未来が見えたとしても、今度は現実を生き抜くための力が必要になる。残念ながら、部屋にずっと籠もってた俺はそんなスキルを持ち合わせてない。そんなことを冷静に考えてみるとかなりしんどい気もするけど、そのへんは溢歌と一緒なら何とかなりそうと言うか、これまで一ヶ月先の未来でさえまともに見通せなかったのに、今の段階で将来の目標とか人生設計を持てだなんて土台無理な話だ。
 なので今の俺は、目の前のできることをやるしかない。こんな時にバンドが躓いてしまってるのは、膝小僧を蹴られたように痛い。
 ひたすら後悔しても何の解決にもならないので、俺は今日も一人歌を唄う。本番に向けての調整の意味合いが強いので、普段とかなり勝手が違うのが困りどころだ。
 何より最近は本当に喉が辛くなってきたので、無理ができない。ひりひりした痛みがつき纏ってる感じもする。ただの季節ものじゃなくて、これまでずっと無理をして歌い続けてきたツケが今になってやってきてる感じもする。
 完全に声が出ないわけでもないし、発声しなければ特に気になることもないので、なるべく余計な声を出さないように気をつけるようにしてる。喉を休めることも歌声を維持するために重要だってことに、最近ようやく気づきだした。
 歌の練習が終わって、台所へしょうが湯を注ぎに行ったら切らしてたので、厚着をして薬局へ買い出しに行く。外は厚い雲に覆われていて、太陽の姿が見えないのが不気味でしょうがなかった。雨は朝方から絶え間なく降り続いてる。
 薬局へ行って、喉に効くものを数点買い溜めしておいた。インフルエンザにはかかってないけど、今後マスクも必要になったりするだろうか。
 ついでにイッコーの店に行って何か摘もうか。簡単な食材は買い溜めしてるけど、いつまでも冷凍食品やレトルトばかりでもつまらない。溢歌の味噌汁が恋しかった。
 商店街のほうへ向かって歩いてると、途中のT字路で傘を差してない人影が見えた。
「ん……?」
 こんな雨降りで傘も忘れて外へ出るなんて億劫な奴だと思ってると、人影に近づくにつれ見覚えのある姿に気付いた。
 と言うか、
「おい千夜、何でここにっ!?」
 思わず大声を上げると、人影は俺のほうをゆっくりと振り向いた。どう見ても千夜だ。バンドの時と違って髪は跳ねてないし眼鏡のフレームも違うけど、背丈も変わらない。着てる紺のジャケットとブーツカットパンツは雨を大分と吸っていて、頭もガラスのフレームもぐっしょりと濡れてる。そばにいると引いてしまうような、酷い有様をしていた。
「黄昏……?」
 小声で俺の名前を呼ぶ千夜の目には生気がない。どこか焦点が合ってなくて、夢うつつな感じで俺を見てる。
 すかさずそばまで行って、傘の中に入れてやった。
「どうしたもこうしたもないだろ、一体何やってんだ、こんなとこで。傘はどうした、そんな格好じゃ風邪引くだろ」
 俺に言われて寒さに気づいたのか、自分の肩をゆっくりと両手で抱きしめる。物凄く弱々しい表情で、見てられない。
「イッコーの店に行ってみたら、休みでシャッターが閉まっていて……キュウに教えてもらった、黄昏の家を探していて……」
「俺の家?まあいい、話は後で聞く」
 そう言えば今日はイッコーの店は定休日だった。曜日の感覚が欠落してるので、俺もてっきり普通にやってるものだと思ってしまった。
 このままイッコーの店に連れて行くより、俺の家のほうが距離的に近いか。腹は減ってるけど、このまま千夜を置いてけぼりにするわけにもいかない。
「とりあえず、家に来いよ。着替えくらい用意してやるから」
 他人から見れば下心丸出しな状況だけど、他意はない。いつものように反論してくるかと思ったら、千夜は何も言わずに黙って頷くだけだった。顔を合わせるのはあの日以来だけど、ぱっと見で本人と気づかないくらい印象が変わってしまってる。
 そのまま相合傘でマンションまで戻った。エレベーターに乗ってる時も、何を話していいのかわからず会話のしようがない。お互いに沈黙のまま、家の前まで戻ってきた。
「ほら、入れよ。右手に風呂場があるから、先にシャワー浴びろな。脱いだのはそこのカゴの中に入れておいていいから。愁の服もあるから、着替えは心配するな」
 玄関の前で突っ立ってる千夜を手招きして、先に台所へ買い出ししたものを置いて、やかんで湯を沸かすと同時に流し場でうがいをする。
 一旦外から家に戻る度にうがいをする自分はまるで子供みたいだ。でもこれを怠ると翌日喉が辛いので、バカにしたもんじゃない。
 千夜は言われたまま風呂場に入って行った。しばらくしてシャワーの音が聞こえる。
「使い方はそこに書いてあるの見ればいいから。体冷えてるだろうから、浴槽に栓してシャワー浴びとけよ。ちゃんと洗ってるから心配するな」
 風呂掃除をするのは億劫だけど、愁に叱られてやるようになってたのでその習慣がまだ残ってた。面倒臭くても、ぬめりを取らずに入り続けて不快な思いをするよりはマシだ。
 やかんのお湯がすぐに沸いて、早速しょうが湯を注ぐ。入れたては唇が火傷するので、少し冷めるのを待つ間に押入れから千夜の着替えを出しておくことにする。
 愁の着替えは透明ケースの一段分に丸々入ってる。上下合わせて2着程度しかない。そう言えばパジャマが別にあったはずなので探してみたら、すぐに見つかった。
 しばらく手に取ったそのパジャマに視線を落としてしまう。愁と一緒に過ごした日々が脳裏にフラッシュバックして、凄まじい後悔の念が沸き上がってくる。それを振り払うように立ち上がって、バスタオルと一緒に風呂場の前に持って行った。
 ちょうどいい加減になったしょうが湯を入れたカップを手に、部屋に戻って暖房をつける。さっき押入れを探っていた時に、仕舞っておいたキャンバスを見つけた。
 みょーに貰ったこの茜色の絵を、今の俺は直視できない。なので、キャンバスを裏返しにして視界に入らない場所に置いておいた。千夜との話の種にでもなるかと思って、引っ張り出して部屋の壁に立てかけておく。
 しょうが湯を飲み干すと、ほっこりと身体が芯から温まった。千夜が風呂から上がったらあいつの分も入れてやろう。あと、自分の分の冷凍ポテトをオーブントースターで焼き上げておくことにした。
 千夜が出てくるまで、自室のベッドに寝転がってぼうっとしてる。道端にずぶ濡れでいた理由は後で聞き出すことにして、まさか千夜がうちに上がるなんて思ってもみなかった。キュウですら入れたことなかったのに。
 念のため、キュウに連絡を入れておいたほうがいいか。話を聞いた後で呼び出しておくことにしようか。そんなことを考えながらベランダの外を見やると、早めの夜が訪れてた。雨も降ってるし雪解けのアイスバーンもあるので、バイクで千夜を家まで送るのは無理だ。それ以前に歌い疲れもあって、二人乗りする気力なんて微塵もない。
 そのままベッドに横になってると、いつの間にかパジャマに着替えた千夜が部屋の前にいた。そりゃ男が寝てる部屋に入るだなんて無理な話だ。うんと背伸びをして、俺も台所まで移動した。温めていた冷凍ポテトを放置してたので、再び温め直す。
「何か食べるか?」
 キッチンの椅子に腰掛ける訪ねてみると、力無く首を振った。こんなに気弱だとまともに話が聞き出せるのか不安になってきた。とりあえず反対側の席に俺も座る。
「…………。」
 そのまま黙ってると、千夜は本当に一言も喋らない。俺の顔も見ないで、ずっとテーブルに視線を落として難しい顔をしてるだけだ。何から話せばいいのか、余計なことを言ってしまうと深く傷ついてしまいそうで、腫れ物に触ってる感じがする。しばらく迷ってると、トースターのタイマーが切れて心地いい音を立てた。
 適当な皿に盛りつけて塩コショウを振って、テーブルの真ん中に置く。促して俺が食べ始めると、千夜も腕を伸ばして一つ摘んで小さな口の中に入れた。そこでフォークを用意しないといけないことに気づく。一体もう俺はどうしてこんなに世話焼きな人間になってるんだ?ひたすら似合わないと自分でも思う。
「……ありがとう……」
 小声のお礼の言葉が千夜の口から漏れて、思わずぎょっと目を丸くしてしまった。びっくりするくらい女の子らしく、しおらしくなってる。事件の影響なのか?これはこれで凄く可愛い気もするけど、何だかこっちの調子が狂う。
「パジャマ、サイズ合ってるみたいだな。背丈が愁と大差ないから、当たり前か」
 寝泊まり用の何もプリントされてない無地のパジャマだけど、結構千夜に似合ってる。
「あ、そうだ、ずぶ濡れになったの洗濯しておくか。まいったな、普段の服も出しとくか」
「い、いい!自分でする!」
 席を立とうとすると反射的に千夜が顔を上げて動揺する。俺に着てた服を見られたくないってことだろう。別に俺は気にしないし、欲情もしないのに。
「あー、じゃあ、ちょっと待ってろ。俺の分の洗濯物取り出してくるから、空いたとこにそばにある洗剤入れて、大きいボタン押すだけでいいから」
 雨が続いてたので自分の洗濯物を機械の中に入れたままだった。その塊を出しに行って、ひとまず自分の部屋の隅にでも固めて置いておく。普段部屋干しもしないので、後でまた戻しておこう。俺が作業してる間に千夜は洗濯機を動かしに行って、機械音が響き出した。
「悪いな、手間取らせちまって。どうする?後で愁の服に着替えて帰るか?」
 台所に戻ってきた千夜に訪ねると、困った顔をしてまた俯いてしまった。どうすりゃいいんだ。いい加減この空気が辛くなってきた。
「そうだ、キュウを呼ぼうか。帰りは一緒のほうがいいだろ」
「いい。キュウは……一人にしておいて」
 助け船を求めようとすると、俯いたまま拒絶されてますます困ってしまった。
「一人にしてくれったって……第一イッコーに会いに行ってたんだろ?何の用事か知らないけど。そもそもおまえこんなとこで油売ってる暇ないんじゃないのか?もう大学受験も目前に迫ってるんだろ?」
 あえて事件の件について、慰めの言葉もかけずに何事もなかった素振りをしてみる。そんな俺の心遣いが伝わっているのかどうか、自分でもよくわからない。
「大学……解らない、自分がこれまで何をしようとしてたのかさえ解らない……」
 困った、これは相当重傷だ。ひとまず、順を追って質問してみることにした。
「何で傘も差さずに水海の街中をふらついてたんだ?携帯持ってるんだから、イッコーやキュウにメールでもしておけばよかったのに」
「メール……そんなの、忘れてた……」
 何だか相当テンパってたみたいだ。それ以前に雨に濡れて、持ってる携帯が使い物にならなくなってるかもしれない。
「んで、イッコーに会って何しようとしてたんだ?……何か尋問みたいになってるな」
「何って……何も……ただ、助けが欲しかっただけ。私の事を知ってる誰かに……」
「よくわからないけど、青空のとこへ先に行けばよかったんじゃないか?わざわざ水海まで出なくても、千夜の家からならそっちのほうが近いだろ」
「それは……キュウが、青空の家にいたから……」
「いたって、先に行ってたのか?ったく、キュウの奴、青空そそのかして乳繰り合ってたんじゃないだろうな……」
 俺の呟きに千夜が大きく肩を震わせた。……まさか、図星なのか?
「――ちょっと待て、もうちょっと遡って整理しよう。別におまえのプライベートを詮索するつもりはないけど……助けが欲しいって、最近何かあったのか?」
 そこまで言って、後悔した。これじゃ傷口を抉ってるのと同じだ。恐る恐る千夜の反応を伺うと特に俺の言葉に過剰反応した様子もなく、俯いたまま質問に答える。
「母に、部屋を荒らされていた。私が病院へ行ってる間に――大切な物、滅茶苦茶にされて……私が悪い訳じゃないのに、あの人はいつも私ばかり責めて――!」
 千夜は言葉を途切れさせて、目に大粒の涙を浮かべる。ここで泣き喚かれても、今の千夜を介抱なんて男の俺ができるはずもない。
「と、とにかく――おまえの母親が悪いんだな?何で酷い目に遭った自分の娘の事を傷つけるような真似をするんだ?」
「……あの人は、私なんてお荷物程度にしか思ってない。私が乱暴されても、『またか』みたいな顔をされて――今度は私の大切な物を、音楽を、諸悪の根源みたいな目で奪おうとする……そんなに私が嫌なら、いい加減に父さんと別れればいいのに……!」
 首を傾げてると、千夜が怒りに肩を震わせて奥歯を噛み締める。
「家庭の事情――なのか?……俺でよければ聞き手くらいにはなってやるぞ。と言っても、両親もいないしアドバイスなんてできないけどな」
 気休めの言葉をかけると、少し落ち着いた表情に戻った。どうやら今の千夜は助けを必要としてるようなので、できる限り力になってやろう。
 千夜は目尻をパジャマの袖で拭って、大きく息をついた。
「私が出かけている間に、母は弁護士に裁判の件について聞きに行っていた。一人娘の私に振り回されるのが、いい加減嫌になってストレスが限界に来てたみたい……」
「で、戻ってきたおまえと口喧嘩になって、思わず飛び出してきたってわけか。そう言えば前におまえの家に行った時にも、母親を憎んでるようなこと言ってたよな?そんなに家庭環境が悪いのか?」
 千夜は少しどもって、言っていいのかしばらく悩んだ末、口を開く。
「私の父親は音楽家で……単身赴任でずっと海外に出掛けていて、私と母の二人であの家に住んでいる。……あの時から、母は――あの人は私を毛嫌いするようになった。見知らぬ男を連れ込んで、父さんの築いた財産を使って……私の事をだんだん見なくなっていった。今回も、私を邪魔者扱いして……私だって、好きでこうしている訳じゃない……!」
 千夜の絞り出す声はとても苦しくて、胸を貫く。「あの時」とは、ジゴの言ってた中学の時に受けた暴行の事だろうか。その事件の収束だけでも、両親は相当に苦労したに違いない。また同じ事が起こってしまったとなれば、母親の理性が飛んでもおかしくはない。
「でも、帰らないわけにはいかないだろ?おまえにはやることがあるんだし」
 不慮の事故で描いてた夢を諦めてしまうなんて、理不尽過ぎる。音大を受験する話は前から聞いてたし、バンドのみんなもそんな千夜の背中を押してきた。
「……解らない。私が私でいる為にしてきた事が、自分を壊す事にしかならなかった――。何度やってもきっと同じ事。……音楽は、私を助けてくれなかった」
 千夜は歪んだ顔で両手で頭を抱えて、テーブルに突っ伏す。
「もうこれ以上、続ける理由も……無い。」
 聞き取れないくらいの掠れ声でそう呟いた瞬間、俺の理性が弾けた。 
「馬鹿野郎!」
 思わず大声で怒鳴ってしまって、喉に鈍い痛みが走る。それでも構わずに、テーブルの上でうずくまる千夜に俺の言い分を浴びせかけた。
「おまえはそんな泣き言言いたいだろうけどな、こっちは次のアルバムの準備で精一杯なんだよ!ええと、おまえにはまだ伝わってないと思うけど……ちゃんとしたCDを作ろうって、みんなで話して決めたんだ。今、イッコーと青空が率先して録音してる。おまえの叩くパートはドラムマシンで仮のを作って、俺も仮歌入れて。千夜の受験が終わった後で、最後にドラムを入れてもらおうって計画なんだ。だから、今辞めてもらっちゃ困る」
「なっ……勝手に決めるな!私はもう……!」
 跳ね上がって弁明しようとする千夜に畳みかけるように反論する。
「いいか、おまえがどんなに絶望してたとしてもだ、俺達はまだバンドを続けていく気持ちはあるし、そのためにはおまえのドラムが必要なんだよ!はっきり言って、おまえが犯されたとかそんなの俺には関係ない。それよりももっと大事な問題がこっちにはいくつもあるんだ。それを乗り越えるためにも、『Days』で歌を唄いたい。おまえだっていろんなことを乗り越えるために、またドラムを叩いてみせろよ」
 千夜の目をしっかり見据えて凄んでみせる。もはやお願いというより脅迫に近いと自分でも思った。確かに自分勝手過ぎる理論だけど、俺にだって余裕がないんだ。
「……そんな、無茶苦茶な事、言われ、てもっ……」
 俺の剣幕が凄かったのか、反論できない自分が悔しいのか、それとも演説に感動でもしてるのか、力が抜けて椅子に腰を下ろした千夜が複雑な表情を浮かべて泣き出した。まるで女の子みたいに、しゃっくりが混じって啜り泣いてる。
 まいった。元気づけてやるはずが思わず怒鳴りつけてしまった。かと言って、泣き言なんて聞く耳持ちたくもない。それに、優しい言葉で千夜を慰めるなんて真似は俺にできそうになかった。
 とは言え、このまま泣き止むまで放っておくわけにもいかない。両手で顔を覆い隠して、溢れる涙をパジャマの裾で拭ってる。
 ええい、もう!
 俺は席を立つと泣き続ける千夜の前まで行って、問答無用で思いきり抱きしめてやった。
「っ!?」
 息の詰まった声を上げて、千夜の身体が固まる。男に触れられたのはクリスマスに犯されて以来の事だから、確実にトラウマになってるはずだ。
 悲鳴を上げて懸命に振り解こうとする千夜を、俺はそれでも力ずくで抱きしめ続ける。
「いいから!黙って泣け!俺にできるのは胸を貸すぐらいしかないんだからな」
 襲う様子がないことを言葉で伝えると、腕の中で暴れてた千夜が大人しくなった。それでも身体が小刻みに震えてるのは、身体が乱暴をされた時の恐怖を覚えてるからだろう。
 その震えを止めるために、俺は優しく肩を抱いてやった。それでも千夜の荒い呼吸や、歯の鳴らす音がそばで聞こえる。ひとまず泣き止んだのを確認すると、俺は千夜の身体から離れた。千夜は両拳を胸の前に当てて固まったまま、しゃっくりを上げていた。両目は泣き腫らして真っ赤なその顔を見てると、複雑な気分になる。
 悪いことをしたのか良いことをしたのか、自分でも気持ちの整理がつかない。
「とりあえず、今日は泊まってけ。別に食ったりしないから心配するなよ」
 すっかり冷めてしまった冷凍ポテトを2,3摘んで、自分の部屋へ戻ってベッドに横になる。自分でも柄にないことをしたと今更自覚して、耳まで赤くなった。
 千夜の返事は返ってこない。それでも涙を止められただけで、俺は満足していた。


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