→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第3巻

   074.レゾンデートル

「お大事に」
 まったく、自分の喉がこんなにダメになってるなんて想像もしなかった。
 あの後青空達に医者に連れて行かれた俺は、急性喉頭炎と診断された。更に小さな声帯結節ができていて、セットになって声が出なくなったようだ。
 点滴を打ってもらって、喘息がかなり収まった。まずは風邪を全部治して、しばらく病院に通院するハメになってしまった。
 何より一番心苦しいのは叔父さん夫婦を呼んでしまったことだ。久しぶりに俺の顔を見た2人は顔をほころばせたけど、すぐに厳しい顔に変わってかなり怒られた。怒られるのが慣れてない俺は、死にたくなるぐらいまで簡単にへこむ。
 ちゃんと定期的に連絡を取るように言われて、叔父さん達と別れた。今はこうして自宅のベッドで静養してる真っ最中だ。声すら出そうと考えるのもダメらしい。声帯が動くだとか何とか。そんなこと言われても簡単に実践できるものでもないけど。
 声帯結節というのは慢性的に声を使う人の職業病みたいなものらしい。先生とか、歌手とか、アナウンサーとか。俺の場合はヴォーカルトレーニングなんて誰にも習ってない独学なので、無意識に声帯を痛める歌い回しをしてる時もあるようだ。
 しばらく通院して、発声の改善もすることになってしまった。それで今までの悪い癖が抜けて、発声法を覚えて歌い方が変わったりするんだろうか。もうすっかり体の芯にまで染みついてしまってるので、思う以上に大変そうだ。
 結節のサイズはそれほどでもない。ただこのまま放っておくと、ますます声が出にくくなる可能性があるらしい。最善策は手術ということだった。
 手術。
 そう言われてもピンと来ない。これまでと同じ声が出なくなる可能性がないわけではないのに、思ってたよりも恐怖感が沸いてこないのは、単に常日頃から自分自身の声が好きと思ってないからだろうか。
「ポリープじゃないだけ、まだマシじゃね?」
 イッコーは笑って言ってくれたけど、いまいち俺には違いがよくわからない。とにかく歌の唄いすぎで酷使し続けたツケが、今になって返ってきたわけだ。
「さっさと手術しちまった方がいいんじゃね。その間に、おれ等が音源固めとくから」
「そう言うわけにもいかないだろ。手術したら全快するのに最短でも2、3ヶ月はかかるって言われたぞ。大体一体いつまでにアルバムを仕上げるつもりなんだ?その後のライヴのこととか、バンドの金とかどうするんだ」
「千夜もしばらく戻って来ないんだから、そこまで心配しなくてもいいよ。アルバム作ったら、ライヴやるのもしばらくは大変になると思うけど……それよりも黄昏の声の方が心配だよ。治せるものは今治しておいた方がいいよ」
「だけど声が変わってしまう可能性もあるんだろ?アルバムに録音する俺の声が今までと変わってしまったら、喜ばない人も多いんじゃないか」
 俺の意見に青空達は目を合わせて丸くした。そりゃ俺だって自分の歌を録音したテープを聴くのすらも嫌だけど、ステージを観に来てくれる客は俺の歌声を求めてる人だっているはずだ。せっかく作ったアルバムで声が違うなんてことがあったら、悲しむだろう。
 結局その日の会話は平行線で終わった。あまり結論を伸ばしすぎてもかえって動きづらくなるだけなので、マスターも含めて再度ラバーズで話し合うことになった。
 声を自由に出せないってのは辛い。ましてや喉に異物感が付きまとってるので、苛立ちを隠せない。喉に効く薬をすかさず飲んで、部屋の中を乾燥させないように対策をしてから眠りについた。夢の中で溢歌に出会えることを願って。
 その日観た夢の内容は覚えてない。ただ普通に声を出せてる夢の中の自分が、目覚めた時とても羨ましかった。
 ますます冷え込む時期で、バイクに乗って溢歌の家に行くこともできない。電車で行っても、あそこは俺の家より暖房がある様子もないし、何よりまだ病人だ。無理に遠出して病状が悪化して、また病院に担ぎ込まれでもしたら叔父さん達に合わせる顔がない。
 病院に通う以外は、風邪が全快するまで自宅で孤独な日々を過ごした。青空に自宅待機を命じられてるので、録音の制作進行状況は携帯のメールで確認してる。こっちがまともに話せないしメールの打ち方も慣れてないので、毎日登録してる顔文字だけを適当に返信しておいた。
 何も喋れないってのは辛い。過去に独りでいる時に一日の間に唄うこと以外会話をしない時もよくあったけど、自分から声を出すつもりがない時と声が出ない時じゃ意識の保ちようが全然違う。一秒でも早く喉の炎症が治るのを願いながら、毛布に包まって温かくしてる自分自身に嫌気がさす。
 それ以上に、唄いたい時に唄えないのが辛くてしょうがなかった。溢歌も愁も隣にいない今、俺を支えられるのは唄うことしかないのに。ひたすら声を出さないでいると、だんだん自分の歌声が劣化していってるように思えて怖かった。愁が身の回りを世話をしてくれてた一番だらけてる時期なんかは、そんなこと全然思わなかったのに。
 かと言って、ただひたすら時が過ぎるのを待って、我慢してるだけじゃ気が狂いそうになる。その間俺ができることと言えば、溢歌にもらったギターで録音する曲を練習するくらいだった。
 イッコーにチューナーを借りて、自分でギターの調節をして練習する。俺なんかは青空やイッコーみたいにギターの才能なんて全然ないことが自分でも理解してるんで、間違わずに弾ければ安泰くらいにしか考えてない。元々キュウに無理矢理やらされて始めたようなものだから、俺自身なかなか気が乗らなかった。
 だけど今はそんな悠長なこと言ってられる場合じゃない。やりたいことが何もできないなら、やりたくなくてもやらなきゃいけないことをやるしかないじゃないか。
 そんな決死の覚悟で手に持ったギターが、思った以上にしっくりときて、かつ夢中になれたのは溢歌のおかげだろうか。小さなアンプとケーブルとヘッドホンをイッコーに貸してもらったので、家でライヴの時とさほど変わりない音色が出せるのはありがたい。
 何故だろう、これまで使ってきたギターと違って、音色が体の芯に染み渡る。エフェクターの使い方なんてよくわからないので繋いでないけど、それでも十分すぎるほど俺を痺れさせてくれる音を奏でる、このエレキギターは。外見からして高価なものなのは十分想像がつくけど、それに負けない強さみたいなものを感じる。
 フレーズを覚えるのが結構大変だけど、その分間違わずに弾けた時には感慨ものだ。俺のギターパートの役目は主にリズムを刻むのと単純なメロディを間に挟むくらいだけど、これまで以上に歌が唄いやすくなる気がした。
 このギターを青空が使ってみるとどうなんだろう。そんな考えがふと過ぎった。
 ステージの上に立つ時には、俺が使うより青空が使った方が何倍も有益な気がした。今まで以上に俺を興奮させてくれる音色を奏でさせてくれるんじゃないかって、本気で思う。もう録音を始めてしまってるけど、風邪が治った時にスタジオに持っていってみよう。
 拙い指の動きで唄う代わりに楽曲のメロディラインを奏でてみると、妙に胸を締め付けられるこの気持ちは何だろう。とても言葉にしにくい感情で、形にするなら「切ない」とでも表現すればいいのか。溢歌がこれを誰からもらったのかわからないけど、前の持ち主の情念みたいなものがこの蒼くきらめくエレキギターに籠められてる気がした。
 自分の体が許す限り、弦を爪弾く。そうやって孤独や不安から目をそらそうとする。今の歌えない俺にはこれ以外何もできないんだから、疲労で眠気が訪れるまで音の海に溺れる。延々と弾き続けることで、新しい何かが見えてくればいいんじゃないかって。
 ずっとギターを奏でてると、まるでギターと対話してる気分になってくる。ベッドの上で悶々と悩み苦しむことも、心の中で話しかけるだけで幾分和らいでいく感じがする。青空達が楽器に向き合って演奏する時って、みんなこんな気持ちでいるのかな。
 生まれてきてからこれまでのことを、一つ一つ思い出しては喜怒哀楽の表情を浮かべる。未だにフレットの配置なんて全部覚えてるわけじゃないから、適当に単音を鳴らしたり聞き慣れたコード進行を繋げたりする。それだけでも自分が上手くなった気にさせてくれる。
 みんな、いろんな想いを乗せて楽器を弾いてるんだな。歌を唄うのと同じように、感情を楽器を通じて表現してる。言葉ではわかってても、頭で理解したのは初めてだ。
 音楽と向き合うってのは、こういうことを言うのかな。
 このギターを手にしてると、心の片隅でほっとした気分になるのは溢歌の存在を感じられるからか。もう一月近く経ってるのに、未だに溢歌が戻ってくる気配はない。せめて手紙の一つくらいくれればいいのに。
 もしかして――なんて暗い想像は時折脳裏を過ぎるけど、あいつのことを信じられなくなった時点で本当に戻ってこない気がする。だからひたすら信じる。暗闇に飲み込まれそうな弱い心を繋ぎ止めてくれるものが、俺の周りにはまだあるんだから。
 今の俺の唯一の武器は、この深海の音色を持ったエレキギターしかない。これに全てを託して、寒い日にもスタジオに足を運ぶ。
「これは……?」
 青空が初めて溢歌に貰った俺のギターを観た時、まるで宝石でも見るかのような驚きの表情を浮かべた。そういや自分のギターを買うまで青空がスタジオの叔父さんに借りてたホワイトファルコンも相当高価なものだったっけ。
 手に入れた経緯を(キュウには内緒で)説明すると、青空は真剣な顔で頷いた。
「……溢歌は相当な覚悟を決めて、黄昏にそのギターを渡したんだと思う。でも、もっと早く僕に伝えてくれれば良かったのに」
 そう言えば、青空には溢歌がいなくなったのを伝えるのをずっと失念してた。それだけ俺も切羽詰まってたってことか。
 試しに青空にギターを渡して、『宝石』を通しで弾いてもらった。俺とはすっかり比べものにならない演奏力を身につけた青空の弾いたギターは、これまでに聴いたことがないほど深みがあって、透き通っていた。イッコーを始め、周りの人間が思わず息を呑む。
「……なあ、青空のギター、今からこれに変えね?もう録ったのは今のままでいいけど」
 イッコーが背筋を伸ばして提案してしまうほど、溢歌のギターが奏でる音色は強烈なインパクトだった。キュウも同じ意見だったし、俺も青空にならこのギターを渡せた。
 だけど、しばらく考えこんだ後、青空はやんわりとそれを断った。
「僕が使うより、黄昏が使った方が良い。ギターの質を考えたら、恐らくそれがベストの選択なんだと思う。でもそれを受け入れちゃうと、これまで使ってきたギターで培ってきた物が、崩れ去ってしまう気がするんだ」
 言い分はもっともで、俺達も納得するしかなかった。ライヴでずっと同じギターを使ってきたのに、音色を変えてしまうのもどうかと言うのも一因だった。俺のはそこまで使ってたわけじゃないし、リズムギターなんで溢歌のギターを選んでも特に問題ない。
 俺の喉が調子悪い分、スタジオに入る時はリズムギターが歌録りより先になる。おかげで多少胸を撫で下ろすけど、その分慣れないギターで青空やイッコーの演奏をダメにしちゃいけない気苦労も増える。歌に関しては絶対の自信と言うか、いつも演奏に負けない歌声を出せる気でいるけど、ギターに関しては苦手意識の方が強い。
 それでも何とか形にできてるのは、このギターの力だと思う。
「このエフェクター、随分音色が変わってるね」
「ディガーの使ってた音に似てんな。わざわざ真似てエフェクターわざわざ自作するヤツいんのなー、たいした情熱だわ。おかげでやりやすいけどな」
 溢歌からギターと一緒に貰った数種類のエフェクターを、曲ごとに弄ってもらう。しくみが俺にはよくわからないので、ステージ上でエフェクターを使う時は前もってつまみをどの位置に合わせればいいのか、繋ぐのはどれなのかを青空に聞いていた。
 スタジオに入ってない日に、新しいエフェクターで曲に合わせたギターの音色作りを行う。イッコーの家にみんなで集合して、色々と試行錯誤を重ねた。
 元々青空のギターも最初にディガー・E・ゴールドが使ってたものの廉価版で、イッコーもディガーのバンドの前座を務めたこともあって、『Days』の楽曲の方向性は似てる。
 なので似てる音を奏でるこのギターは、俺達の楽曲にぴったりとも言えた。
 と言って、丸々トレースすることはしない。青空もオリジナリティを出そうとその辺には十分気をつけてるし、被ってしまいそうな場合はイッコーが注意する。
 3つの音が重なると、『Days』の奏でる楽曲の方向性もますます定まってきたように思える。千夜のドラムの生音じゃないのは重ね重ね残念だけど、奮起を促す意味でも途中のテイクだけでもあいつに聴かせてやりたいと思った。
「しかしこれ、本当にディガーの使ってたのにソックリだよなー」
 作業の途中、気になってたイッコーが自分の部屋にある『discover』のビデオを俺達に見せる。3枚目のアルバムのライヴで使ってたギターの一つに確かに似てる。
「ねえねえ、これ、マジで本物なんじゃないの!?」
 一人興奮するキュウをよそに、懐疑的な青空はいたって冷静だった。
「確かに似てるけど、ディガーは自殺する前に持ってた楽器を全部捨てちゃったって話だからね。それもあるから伝説のミュージシャンみたいに語られつつある訳で」
「まー、似せたのを作ってみましたってくらいにしか言えねーんじゃねーかな。おれも結構フリークだけど、こっちのエフェクターはライヴ映像で観たことないのばっかだし」
 イッコーがエフェクターの一つを手に取って俺達に見せる。じゃあライヴで使ってない物じゃないかとキュウも詰め寄るけど、結論を出せるわけもない。
「黄昏が貰った本人から聞ければいいんだけど……」
 青空の視線に俺は黙って首を振る。溢歌がそばにいない今、このギターが何なのかだなんてわからない。そもそもこれは形見だと言ってたし、ディガーのとは全く別物だろう。関わってる人が作ってみた物なのかも知れないけど、いくら推測した所で始まらない。
「そーそー。素直にたそのギターがパワーアップしました、でいーじゃねーか」
「ホントこの男はお気楽よね……お宝が目の前にあるかもしれないってのに」
「つか現実感なさすぎだろ、そんなギターが今ここにあるなんて。どこの漫画の世界だよ」
 呆れるキュウにイッコーが鼻で笑う。確かにありえない話で盛り上がったところでどうしようもない。今はただこのギターを使って、演奏力を高めることが最重要課題だ。
 今はまだ、喉を休めてる状態なのでギターに集中していられるけど、声を出さないことで声帯が弱っていくんじゃないかと不安になる時もある。そんな焦りが今の惨状に繋がってるのも十分わかってるので、我慢のしどころなんだろう。
 ギターを録り終えた時に自分の喉が歌える状態まで回復してるのかどうか。そんな恐怖がつきまとう。手術した方がいいのかどうか、結果は後になってわかるだろう。悪いほうへ転ばないことを祈るばかりだ。
 そんなこんなで、しばらく病院通いとスタジオ通いの日々が続いた。家に一人でいる時もほとんどがギターに触れる時間に費やしてるのは、何もしないでいると恐怖心に苛まれるのと、溢歌の存在を感じられる安心感からだろう。
 青空もこんなふうにギターに触れて、上達していったのかもな。
 ベッドに座って同じ姿勢でギターを弾き続けてると、腰に来る。台所のテーブルの椅子を部屋に運んで、毛布を背もたれに敷いて体を預けて練習に励むようにしてる。演奏する時は窓もカーテンも閉め切ってるので、本当に時間の感覚がわからなくなる。
 ずっと弾き続けてて少し休憩を入れようとギターを置いたところで、いきなり玄関のチャイムが鳴った。うちのマンションはオートロックだから、余計な新聞や宗教の勧誘は来ない。またイッコーが俺の様子を見に来たのかと足を運んで確認してみると、覗き穴の向こうに見える人物に思わず目を丸くした。
 和美さん?


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