→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第3巻

   077.茜色の夕日

 気が重い。
 こんなに胃が痛くなるのは久しぶりだ。
「家へ帰るおつもりですか?」
 待ち合わせに選んだストロベリーパーク前のファミレス玄関で踵を返して今来た階段へ向き直ったところに、背中に柔らかい声が飛んできた。
 恐る恐る振り返ると、口調とは裏腹に威圧感のするオーラを晒し出す和美さんの笑顔があった。俺が逃げ出したくなるのを予想して、玄関前で待ってたのか。
「いやちょっと、腹の調子が……」
「なら中のトイレで先に済ませましょう。愁ちゃんと待ってますから」
 俺の言い訳を笑顔のままシャットダウンする和美さん。わざわざ愁と再会できる席を設けてくれたんだから、無下にするわけにはいかないと思ってても、胃がよじれる。
「わ」
 俺が目を逸らしてる隙に和美さんが俺の腕に自分の腕を回して、店内に引っ張っていく。そんな格好をカウンターの店員に見られてこっ恥ずかしい思いをしながら、窓際の禁煙席に連れていかれた。窓の外をぼんやりと眺めていた愁がこっちに気付く。
「や、やあ」
 ぎこちない笑顔で挨拶を返すと、愁はジト目で俺の見つめ返してくる。そこで和美さんと腕組み状態になってることに気付いて、慌てて離れた。
「約束通り、連れてきましたよ」
 和美さんは気にせず笑顔で愁に伝えると、隣のソファに座った。俺も服のよれを正して、愁と向かいの席に座る。まだ気まずい空気ではないものの、何から話していいのかわからずにいる。それは愁も同じようで、こっちを意識しすぎてるのか視線は合わせるものの、、困った顔で髪を指で弄くったりしていた。
「何だか初デートの2人みたいですね」
 戸惑う俺達を見て、和美さんが楽しそうに微笑む。今日はそんな場じゃないのに、できるだけ俺達の空気を和ませようとしてくれてるみたいで、ほんとに気が引ける。
「あら、もうこんな時間。私これから友人達と約束があるので、これで失礼しますね」
「え、和美さんいてくれるんじゃないの?」
 腕時計を見て席を立とうとする和美さんのコートの裾を愁が引っ張る。てっきり2人が話しやすいようにずっと隣にいてくれるものだと思ってたので、内心焦る。
 俺も帰るな帰るな〜と念力をこめた視線を和美さんに送ると、笑顔一つ。
「それじゃ、ごゆっくり」
『あっ…』
 思わず愁と同じタイミングで立ち去ろうとする和美さんを呼び止めて、顔を見合わせる。気まずい雰囲気が流れてる中、和美さんは俺達に「頑張って」と一声かけてから店を出て行った。何をどう頑張ればいいんだろう。
 とりあえず水でも飲んで冷静になろうとしたら、まだ店員が来てなかった。和美さんのグラスが一つ余ってたのを、愁が気付いて差し出してくる。頑張って笑顔を作ってそれを受け取ると、口に含んだ。深呼吸をして辺りを見回す。
「キュウは……いないんだな」
「和美さんとも相談したけど、たそに会うこと言っちゃうと絶対ついてくるから。キュウが隣にいたら一人で突っ走って、あたしが喋りたいこと喋れないし」
「それはそれで気苦労が多いな」
 もしこの場にキュウがいたら俺がどんだけ罵倒されるかを想像するだけで、気が滅入ってくる。スタジオでは愁の話題を2人とも意図的に避けてるから衝突は起こらないけど、腹に据えかねたものを絶対持ってるはずだ。
 最初の会話が終わったところで店員が来たので、ひとまずドリアとポテトを頼んだ。愁は腹が減ってないのか、カフェオレで済ませる。
 着てたコートを脱いで、隣に置く。さすがに今日は愁に貸したジャンパーを着てくる気にはなれなかった。近場だからバイクも乗らないし。
 注文が来るまでの間、この席に沈黙が流れる。店内に流れるイージーリスニングがやけに耳に入る。あんな別れ方をした後の再会なんだから、まともに話せるほうがおかしい。
 なるべく刺激しないように、溢歌の話題はできるだけ避けて、今日は結論に持っていかなくても円満に済ませられるように心がけよう。
 とは言えスタジオと自宅の行き来しかほとんどしてない今の俺に、世間の話題なんて一つもできるはずもない。愁も俗世とは無関心の俺を知ってるのでそうした日常会話は一切振ってこないので、結局会話が生まれない状況になってしまっていた。
 しょうがないので、適当に話を振る。
「どうだ、ちゃんと学校行ってるか」
「高校中退したたそに言われると何だかヘンな感じだね」
「悪かったな」
 しょっぱなから口撃されるとは思わなかった。
「でも行ってるようならよかった。キュウみたくさぼりまくってもな」
「そうそうキュウ、最近ほんとに休んでばっかりなの。何か聞いてない?」
「いや、別に」
 確か青空を慰めてやった、までは聞いたけどその後どうなってるのかわからない。同棲でもしてるんだろうか?でもそれで学校に行かない理由はないよな。
「じゃあ次会った時に言っておくよ。出席日数やばいのか?」
「うん、最近休みっぱなしでギリギリじゃないかな。心配してるって伝えて」
 全くあいつは何考えて生きてるのかわからん。高校行かないくらいならいっそ俺みたいにすっぱりと辞めてしまえばいいのに。今度そのへん訊いてみるか。
 と、そこでまた話題がなくなる。今日はまだ太陽も出てるし外に出て話したほうがいいか。だんだん場の空気が重くなっていくのが結構辛い。
「外で話そっか」
「……賛成」
 窓の外を見てた俺の考えを汲み取ったのか、愁が促したので席を立とうとする。とそこに注文したメニューが運ばれてきた。
「あ、ちょっと待って。頼んだものは腹に入れてく」
 席に着き直して、遅めの昼食を取る。ポテトを薦めると、愁も少しだけ摘む。最近まともなものを食ってないせいか、ドリアが死ぬほど旨い。
「ちゃんと料理してる?」
「最近はレトルト。あんまり食欲ないのもある」
「ダメだよちゃんと食べないと。せーちゃんに料理教えてもらったら?」
「考えとく」
 私が教えてあげるとは言わないのが、愁との距離が開いたのを感じる。食欲に関しては喉が痛いのもあって、腹の減りよりもそっちのほうを意識してしまう。だから刺激物は控えめだ。元々菓子や炭酸飲料は普段から口にしない。
 いざ食べ物を口にすると空腹だった自分に気付いて、ガツガツ平らげていく。そんな俺を愁が顎に両手を当てて感心した様子で見てくる。
「前から思ってたんだけどさ、たそって食べ残ししないよね」
「え?ああ……そう言われれば確かに」
 母親の教育が染みついてるのか、極端に苦手な食い物以外はテーブルに出されたものは全部平らげてしまうタチだ。
「別にもったいないおばけが怖いわけじゃないけどな。出されたものを捨てるのが許せないというか、皿が綺麗に空になってないと落ち着かないというか。今も親のスネかじって生きてるようなもんだから、無駄遣いはしたくないって強迫観念なのかもな」
「でもそんなたそがあたしは好きだよ」
 そう言ってえへへと照れ笑いする愁。今でもこんな俺に変わらない笑顔を見せてくれることが胸に響いて、ちょっと涙腺が滲みかけた。
 食事が終わって会計を済ませて、外に出る。もちろん俺が全部払った。
「とりあえずそのへん歩くか。冬の散歩道は寒いだけかもしれないけど」
 食べた直後なので体が温まってるから、しばらくは大丈夫だろう。ファミレス前のストロベリーパークは冬だと言うのに人の姿をちらほら見かける。長ズボンを履いて走り回ってる子供達の姿も見える。俺には到底真似できそうもない。
 肩を並べて公園外周の煉瓦が敷き詰められた散歩道を歩く。規則的な煉瓦の模様が綺麗で、デザインする人や道路を舗装する人はよくこんな物を上手に作れるもんだと感心する。
 ふと、ジロジロと俺の上下を眺めてる愁に気付いた。
「たそ、ほんとに食欲減ってるんだ?前より痩せたみたい」
「……そうか?自分じゃ進んで鏡みないからわからないけど」
 愁に言われて顎の周りを手のひらでさすってみる。それほど髭は生えない体質なので剃らなくてもジョリジョリした感覚はない。もっと年を取れば顎周りにびっしり生えてきたりするのかな。でも正直似合わなさそうだ。
「せめて外に出る時くらいは身だしなみを確認しようよ」
「って言われてもな。めんどくさいと言うか、他人に不快にならないくらいで大丈夫だろ」
「その基準線もすっごく怪しいけどね……」
 ジト目を向けられると俺が間違ってるのかと思ってしまう。普段から人と会わない生活をしてるから、身だしなみにはほとんど気を遣わないのでずれてる可能性は少しあるかも。
 かく言う愁は茶色のニット帽に、厚手のパーカーと長ズボンを履いてる。愁は普段からスカートよりもズボンを履く傾向にある。理由は知らない。キュウみたく冬の日でもパンツが見えそうなくらい短いスカートを履かれてもそれはそれで困る。
「でもたそはイケメンだからいっか。何やっても許されるもんね」
 思わず咽せた。
「あ〜、まあ、自分の外見で特に不自由に思ったことはないけど……。昔は背が低かったくらいか」
「そうなの?初めて聞いたよ」
「そりゃ言われなきゃ答えないだろ、そんなの」
 今でも160cm代だから、全国平均からすれば低いほうだろう。でも子供のころはもっと低かった。
「中学の終わりくらいからかな、一気に伸びたの。それまでは前から数えたほうが早かった。外向的な性格じゃないのはそのせいかもしれないな。体力なかったし。今もないけど」
 自虐的に力こぶを作る真似をしてみる。腕っぷしもそんなに強くないのに、夜中に自宅のマンション下で騒いでる不良達に喧嘩売ったこともあったっけ。
 そう言えばこの公園でみょーと初めて出会ったんだった。雨の日で殴り合いをしてたのを思い出した。しばらく歩いてるとその場所が見えてくるかもしれない。
「くしゅん」
 食後の熱効果もなくなってきたのか、くしゃみが出る。同時に激痛が喉に走るので、ズボンの前ポケットに入れてあるのど飴を取り出して、口に放りこむ。
「結構声しんどそうだね」
 気になってたのか、愁が俺の顔色を窺う。
「たそ、風邪でも引いた?」
 久しぶりに会うのに俺の日常会話のトーンをよく覚えてるもんだ。別に隠すつもりはないし、正直に答えよう。
「歌いすぎで、医者にダメ出し喰らった」
「え――――っ!?たそ、大丈夫!?無茶しすぎてない!?それならそうと早く言ってよ!!」
 突然愁が取り乱して、両手で頭を抱えこむ。そりゃ言えるわけない。
「ああもう、和美さんもキュウも教えてくれなかったよ」
「そりゃそうだろ、気を遣ってるんだ。キュウなんか俺のことめっきり嫌ってるしな」
 ぶっきらぼうに答える俺を見て愁が難しい顔をする。
「ちゃんと定期的に医者に行ってるし、大丈夫だよ。ゆっくり休めば治る」
「そうだといいけど……」
 そんな不安そうな顔をされると俺まで治らないんじゃないかと怖くなってくる。
「合わせてボイストレーニングも習ってるさ。今まで負担かけすぎの歌い方してたみたい」
「難しいもんだね、歌うのも……」
 実際に歌う時には、以前の名残がまだ残ってるし、歌い回しさえ微妙な変化が現れそうだから変わらずにいるけど、かえってそれで治りにくくなってる部分もあるだろう。
 ひとまずはCDを録音し終えて、発売記念ライヴをやるまでだ。
 公園を歩いてると、冬の花がいろいろ花壇に植えられてる。花泥棒には罪がない、とは昔誰が言ったか、現代じゃそんなこともないので花壇は公園前の交番に近いところにある。
 しかしいい加減寒くなってきた。冬の太陽は角度が低い。
「寒いのは嫌いだ……」
「どこ行くのさ」
「引き返そうかと思って。やっぱり俺には冬の寒さは厳しい」
「とか何とか言っちゃって、夏なら夏の暑さは厳しいとか春なら春の陽気は眠くなるとか秋なら涼しくて眠くなるとか言い出すんでしょ。わかってるよそれぐらい」
 図星過ぎて返す言葉もない。
「じゃあ、たその家に行く?あたしはいいよ」
「ダメだダメだダメだ」
 何でそんなに気軽に言えるのか理解できない。また何か余計なことをやってしまいそうで怖い。愁が傷つきそうなことはこれ以上したくない。
 俺の取り乱しかたが怪しいと思ったのか、疑り深い目を向けてくる。
「何よ、溢歌ちゃんと暮らしてるからやましいところがあったりするの?」
「いや、そうじゃないけど……狭い空間に2人きりだとまた話がややこしくなりそうで」
 俺がまた自虐の心で愁に何をしてしまうかわかったものじゃない。他人の彼女の和美さんでさえ、向こうの誘いとは言え乗ってしまったというのに。
「溢歌は今はいないよ。ちょっと遠くに出かけてる」
 正直に答えると、愁の顔から血の気が一気に引いた。
「……うそ、事故か何か?それとも――」
「違う違う違う死んでない死んでない。勝手に殺すな」
 慌てて全力で否定する。そうしないと本当に戻ってこなくなりそうで怖い。
 近くにあったベンチに座って、要点をかいつまんで愁とクリスマスの日に別れた後、溢歌と過ごした短い日々のことを話した。溢歌がどれだけひとりぼっちだったのか、そしてようやく前を向こうとする溢歌をいつまでも待ち続けてることを。
「……あたしには、溢歌ちゃんの素性なんてよくわからないけど……」
 困った顔で愁が呟く。
「たそが彼女のこと、凄く大切に想ってるんだなってのはわかったよ。そんなに真剣な目で話されると、正直嫉妬しちゃうけど」
「……悪い」
 ついつい真剣に自分の想いを伝えてしまって、凄くばつの悪い気持ちになる。何て無節操なんだ俺は。また愁を傷つけてどうするんだ。
「そう言えば愁は、溢歌の身の上話とか一緒にいた時聞いたことないか?」
 空気が重くなっていく前に、話題を反らせてみると難しい顔で首を傾げる。
「自分からは何も……あたしも一緒に過ごしてた間は何も聞かなかったもの。あ、でもたそのことどう思ってるのかは訊いたよ。聞きたい?」
 予想外の発言に思わず心臓が飛び出そうになる。
「……いや、やめとく。あいつの口にすること、どこまで本音かわかったもんじゃないし」
「そっか……でも、多分たそが考えてるのと同じ目線で溢歌ちゃんは見てると思うよ」
「その言葉、ありがたく受け取っておくよ」
 微妙にくすぐったくて笑顔がこぼれそうになるのをこらえる。愁の前でこれ以上溢歌のことで笑顔を見せるのは辛い。
「でも、これだけは覚えておいてくれ、愁」
 俺は隣に座る愁に面と向き直って、しっかりと目を見つめて心の底から伝える。
「愁を想う気持ちも、溢歌を想う気持ちも俺の中で同じくらいなんだ」
「――それ、数字にしてみたらどんな感じ?」
「えっ?」
 予想外の問いに思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「同じくらい、じゃどっちが上かわかんないでしょ。そんな曖昧な言葉やだよ」
「……さりげなく厳しいことを言うなおまえは……」
 内心物凄く冷や汗をかいてる俺がいる。ゲームじゃあるまいし、人を想う気持ちはバロメーターで数値化されてるわけでもない。
 一つ咳をついて、きちんと自分の気持ちを説明しようと思った。
「あそこで愁を追いかけようとしなかったのは……きっと愁なら、俺がいなくても大丈夫って、心のどこかで思ってしまったからなんだろうな。愁にはみょーも和美さんもキュウもいるし、1人じゃない。だけど溢歌は正真正銘の孤独だったから、俺があそこで手を離してしまうと、もう二度と救えない、そう考えてしまったから。……溢歌を選んだことに迷いはなかったけど、まさか愁があんな真似するなんて想像してなかった俺のせいだ」
 今でも選択は間違ってなかったと思う。間違ってたとしても、そう思いたくない。ほんの少しの天秤の傾きで決めてしまったことで、もちろん愁に納得してもらえるとも思わない。それを証拠に話を聞いた愁もどう答えていいものかわからないのか難しい表情で俺の顔を見つめてる。
「いざこうして実際に会ってみても、やっぱり謝る言葉以外浮かんでこないんだよな。そんな状態で愁に会ったところで、どうしようもないことはわかってたんだけど」
「そんなことないよ!……やっぱりたそにずっと会いたかったし、こんな気持ちでも」
 愁の想いが胸に刺さる。泣きそうな顔をしてるのを見るとこっちまで涙が溢れそうになる。きっと愁も、最後に別れてから今日まで毎日俺のことばかり考えてたんだろう。罪深い男だ、俺も。
「嘘みたいだよな、つい一月ほど前まで部屋で抱き合ってたなんてさ」
 きっと2人の距離は離れてない。だけどその間に絶対に破れないガラス戸ができた感じだ。今では愁の手を繋ぐことさえためらわれる。
「じゃあ今なら!……っていうのはムリだよね、やっぱり」
 望みを持って愁が叫ぶ。今でも本心じゃ俺に帰ってきて欲しいと思ってるんだろう。でも、溢歌がそばにいなくても、心は溢歌と共にある。でなきゃ、愁に酷いことをした俺が、また同じ過ちを繰り返してしまうことになる。
「それで隙間を埋められても、俺もおまえも悲しくなるだけだろ?」
 愁の想いに応えてやりたい。そんな気持ちでいっぱいなのに、俺の両手は愁を抱き締めることができない。今の自分の想いが慈愛なのか、贖罪なのかさえわからない。
 だから、別れよう。
「多分やろうと思えばできるんだ、これまでと同じように接することが。だけどそれでいいのかって思う。やっぱり、けじめはつけなきゃならない。いつまでもずるずる引っ張ったところで、余計に混乱するだけだ」
 きっぱりと言って、唇を噛みしめる。きっと今の俺は、捨てられた子犬を目の前にしたような表情でいるんだろう。そんな俺の姿を見て、目の前の愁はどう思ってるだろう。こんなに近くにいるのに、相手の心がわからない。
 きっとこの時点で、俺は愁と一緒にいることができないんだろう。
 冬の公園に射した日差しが、徐々に傾いて夕暮れを誘う。愁は柔らかくなった黄金色の空を見上げて、小さくため息をついた。
「黄昏が前を向けたのはとっても嬉しいよ。だけどあたしは、何だか取り残されたみたい」
 白い息が虚空に溶ける。愁の横顔は憂いに満ちて、網膜に焼き付くほど綺麗だ。ふと柔らかいその栗色に染めた髪に触れたくなる衝動に駆られる。きっとこの表情は二度と忘れないだろうと、ふと思った。
「俺はあの時、どっちかを選ばなきゃいけなかった」
 ベンチに座り直して、俺も空を見上げる。野鳥のシルエットが遠くへ飛び去っていく。
「手放したほうが、二度と元に戻らないのは心のどこかでわかってた。もしかしたら溢歌を選んでしまったのは、おまえとの境遇と比べてあいつのほうが可哀想に思えたから、なんて単純な理由なのかもしれない。自分でも最低な男だなって思うよ。他人から見たら簡単に二股かけてるようにしか見えないよな。体が二つあればいいのにって何度も願ったりする。2人とも、もう片方の相手と一緒にいるところなんて見たくもないに決まってる」
 客観的に見ると、とんでもない男だと自分でも思う。女にだらしない優柔不断な男と思われてもしょうがない。
「愁は、一体俺のどこがよかったんだ?」
 率直に疑問をぶつけてみた。みょーの代わりなら誰でもよかったわけじゃないだろう。
 愁は俺の姿を上から下まで眺めてから、答える。
「んーと……顔」
「……どう反応すりゃいいんだ」
「だってそりゃ最初に来るものはそれだよ、人間誰しもね」
 正直過ぎる意見に否定もできないで、肩をすくめてしまう。
「やっぱり、かっこいいからだよ。あたしはたその歌ってる姿がかっこいいから、好きになったんだよ。前にも言ったでしょ?ステージに立って歌う黄昏が、世界で一番かっこいいの。だから、どんなにだらしがなくても、そばにいて歌ってるとこを見たいって。だから一緒にいたんだよ。その思いは、今でも変わってないよ」
 面と向かって言われると、物凄く恥ずかしい。そしてその純粋さを傷つけてしまった自分が、とてつもなく嫌になる。
「……なんだ、その、ありがとうな」
 視線を背けたまま礼を言うと、そんな俺の姿が可愛いのか愁は小さく微笑んだ。
 今の俺が愁にしてやれることって何だろう?恋愛以外で、何か一つでもこの小さな体の女の子に恩を返すことはできないか、ひたすら頭を捻ってみる。
 答えはすぐに出てこなかった。だけどこんな俺でもまだ、きっと愁にできることはある。
 そう考えると、ほんの少し肩の荷が下りた気がした。
 と同時に、気が緩んでくしゃみが出る。話し込んでたらすっかり体も冷えてしまって、温かい飲み物が欲しくなる。一旦公園の売店付近へ向かって、自動販売機で何か買うことにした。
 のど飴の効果も切れてきたのでポケットから新しいのを出して、舐める。
「喉、病院行くほど辛いの?」
 隣を歩く愁が心配そうに俺の顔を覗きこむ。
「安静にしてれば何とかなるレベルだってさ。だからあんまり声が聞こえにくくて悪いな」
 気を遣う俺の顔を見て愁は難しい顔をしてる。嘘をつくと顔にモロに出るタイプって言われるから、当然のように見透かされてるに違いない。愁は何か言いたげだけど、俺の気遣いをわかってくれてるのか、難しい顔で黙りこくってる。
「……大丈夫さ、次のライヴはちゃんと歌うことができるよ。今やってるCDの録音も、休みを入れながらちょびちょびと進めてるとこだ。何にも問題ないって」
 自分自身に言い聞かせるように気休めを言う。
「それより愁のほうはどうだ。……腕の傷、痛むか?」
 ずっと気にはなってたけど、触れなかったところを訊いた。愁は立ち止まって、パーカーの左腕の袖を少しまくってみせる。少しベルトが大きめの腕時計が巻かれてて、俺は言葉を失った。
「見る?」
 愁の一言に思わず気を失いそうなほど背筋に寒気が走る。もちろん、絶対に見たくない。だけど見ないと俺は自分のしでかしたことを心から認識できないと思う。
 固まったまま返事もできないでいると、愁が腕時計を外して、左の手首を捻って俺の前に差し出した。
 横一文字の大きな傷跡。
 しっかりと刻みつけられてるそれは、二度と消えそうにない。
「たそ?」
 その光景を見て俺は愕然として、全身の力が抜けてその場でよろめいて石畳の上に情けなく倒れた。
「たそ、たそってば!大丈夫?」
「……貧血起こしたかな」
 俺がこれほどショックを受けるとは愁も思っても見なかったみたいで、本気で心配してくる。かく言う俺もまさか倒れるほど衝撃を受ける覚悟をしてなかった。
「これ……俺がやったんだよな」
 気にかけてくる愁の左腕を掴んで、もう一度よく傷跡を自分の眼前で確認する。それだけでどんな思いで愁が手首を切ったのか、そしてその光景がまるで目撃したみたいに俺の脳裏にフラッシュバックされる。
 しばらく俺は固まったまま、その傷跡から目が離せずにいた。
「やだ、たそ、そんな泣かないでよ」
 困った顔で愁に言われて、初めて俺が大粒の涙を流してることに気がついた。
「……自分の罪を詫びて、今すぐ車道に飛び出してトラックに轢かれて死にたい」
「そんな冗談言わないでよ、たそったら」
 愁は笑って言うけど、俺は本気でそう思ってる。どれだけ自分が他人を傷つけたのかの証拠を現実に見せつけられて、精神が耐えられなくなってしまった。
「ごめん。あたしだってこんなにたそが動揺するなんて思ってなかった。だから立とうよ」
 手を貸してもらって、両足で踏ん張る。それでもまた倒れそうなほど、精神的ショックが大きかった。コートの裾で頬を伝う冷たい涙を懸命に拭う。
「これじゃどっちが悪いかわからないよ。そりゃ、たそに自分のしたことをちゃんと分かって欲しいって、恨みがましい気持ちもあったのはホントだよ。でも、謝ってほしいわけじゃないんだ。あたしが自分でやったことだもの」
 そう自戒する愁の姿がとてもか細く、痛々しい。だけど俺にはそれ以上言葉をかけられなかった。
「たそはそこのベンチで休んでて。あたしが飲み物買ってきてあげるから。ミルクコーヒーでいいよね?」
 気遣ってくれる愁に無言で頷いて、そばの空いたベンチに崩れるようにもたれかかる。何も考えられないほど視界がぐわんぐわんと揺れて、吐き気がしてくる。気付くと口の中ののど飴は吐き出したのかなくなっていた。
 呆然としてると、愁が缶コーヒーを両手に一つずつ抱えて戻ってくる。差し出されたほうを受け取って、なんとかベンチに座り直して開けたコーヒーを口の中に流し込んだ。暑さもあって思わず咽せると、喉の痛みも再発する。
「と、とにかく落ち着こうよ。そうだ、スタジオ行ってもいい?レコーディングの」
 これ以上俺が取り乱すのを見たくないからか、愁が別の話題を振る。大きく深呼吸をして息を整えてから、俺は首を左右に振った。
「いや……止めてくれ。その、愁が来たところで、今の俺はおまえにかっこいい理想の俺なんて見せられない。まともに一曲通しで歌えないし、喉の痛みも重なってイライラしっぱなしだ。怒鳴り散らすこともできないから、余計に鬱憤が溜まってる。もうこれ以上、俺に関わって愁に辛い思いをさせたくないんだ」
 悲鳴を上げるように、心の内を吐露する。愁の顔を見て説得する気にもなれないほど、自分を責めてるのがわかる。思うところはあるだろうけど、それが俺達2人にとって一番いい選択だ。
「たそは、あたしのことを嫌いになったの?」
 少し間を置いて、愁が恐る恐る訊いてきた。俺は頭を横に振って、愁に向き直る。心配そうな顔をしてる愁の瞳には、きっとひどい顔をした俺が映ってる。
「心の中で、どれだけ愁に謝ったかわからない。愁のことを想い続けることで、テレパシーみたいに相手に伝わればいいのにって思ったこともあるな。迷惑か」
 笑い飛ばしてみせるものの、冗談じゃなく本気でそう願ってるところもあった。ただそれは、心の弱さから来る逃げだってことも十分分かり切ってた。
「きっとこんなふうに、顔を合わせるのが嫌だったんだ。断腸の思いで溢歌を選んだくせに、また愁の顔を見たら心が揺らぐんじゃないかって脅えてた。……実際、その通りなんだけどな」
 今にも捨てられそうな、子犬の目をした愁を目の前にすると、今度はその手を取って、溢歌を突き放してしまいそうになる。その場の感情に流されやすい自分を分かってるからこそ、きっちりとけじめをつけなきゃいけない時だって心の中で何度も呟く。
 愁は戸惑った顔で手元に視線を落として、ぽつぽつと言葉を紡ぐ。
「あたしだって、たそと似たようなことは考えてるよ。藁人形に恨みをこめて呪術で相手を呪い殺すじゃないけど、どうしてあたしのこの胸の想いが伝わらないんだろ、想い続けるだけじゃダメなのかなって、何度も考えたりしたよ」
「その愁の想いは十二分に伝わってるさ。ただそれでも溢歌を選んでしまった俺の責任だ。ただ自分の気持ちに嘘はつけないから、どこかでけじめをつけなきゃいけないんだ。……何もかも捨ててバッくれるのもいいかななんて考えたりもしたけど」
「またそーやってたそは逃げようとするんだから。何も変わってないね」
 痛い一言だけど、まったくだ。 
 缶コーヒーの中身はすぐに空になって、苦笑しつつ空き缶を足下に置く。
「ホントなら、愁に伝えなくちゃいけないことってたくさんあるんだ。でも今日愁と再会するまでの俺は、考えることから逃げてた。考えてしまうと、自分が嫌な予感のする方向へ引きずられてしまうような……愁にひどいことした俺が言うセリフじゃないけどさ」
 一命は取り留めたものの、最悪命を落とす可能性だってあったんだ。あれだけ溢歌のことを不安にかけておいて、愁のことを同じように見てやれなかったのは俺のミスだ。
「もっともっと、愁のことを考えてやらなくちゃいけなかった。愁がどんなことを考えて俺の姿を見てたかなんて、ほとんど想像できなかった。結局、自分が勝手に作り出した愁への幻想を、目の前にいる愁に押しつけてただけなんだなって、ようやく理解できた」
 愁ならわかってくれる、そんな気休めに近い思いを勝手に押しつけて、苦しめてしまった。ホントにわかってないのは自分のほうだ。
「もうこれ以上俺を悩ませないでくれ、なんてひどいことは言わない。2人の想いに押し潰されそうになっていつまでももがいてるのが、俺らしいよ」
 星が見え始めた夕暮れの冬空を仰いで、自嘲気味に笑ってみせる。自分で生み出した贖罪を死ぬまで償い続けるのが俺の生き方だ。後悔を引きずっていくことが生きていくことなんだなって、この年になってようやく理解できた気がする。
 だから、終わりにしよう。
「多分、俺の胸の内をどれだけ言葉にしても、愁にはきっと全て伝わらないと思う。このまま愁との関係を戻したら、また同じことが必ず起こる。それが俺にはわかってるから、できないんだ。もう俺には、愁の心を癒すことなんてできない」
「そんなことないよ!そんなこと……ない」
 俺の言葉を慌てて遮る愁の手を取って、落ち着かせる。
「あの時、何かの間違いだって思ったろ?でも、間違いじゃなかったんだ。そう言い切れてしまうから、俺にはもう愁と一緒にいる資格がなくなってしまったんだ」
「そんな資格だなんて……あたしが決めるよ、そんなの!」
 目に大粒の涙を浮かべて、愁は俺を真っ直ぐに見つめる。その大きく円らな瞳はとても純粋で、俺なんかが映っていいような代物じゃなかった。
「殺したいほど恨まれたよ、みょーには。当然だよな、自分の大切な妹に深い傷を与えてしまったんだから。あいつがあれだけ怒るのもよくわかるし、だからこそもうやり直せないと感じた。何より俺自身が、溢歌を大切にするって決めてしまったから。それに、愁のことも本当に大切に想ってるからこそ、もう会わないほうがいいんじゃないかって思った」
 俺の勝手な考えを押しつけてることはわかってる。それでも愁は唇を噛みしめて黙って話を聞いてくれてる。何て優しい子なんだと、改めて思った。
「この喉の痛みも、天罰だと思ってるよ。音録りがまだまだ残ってるから、しばらくはつき合っていくことになりそうだ。最後に愁と会ってからずっとどうすればいいか悩んでたけど、和美さんのおかげでこうしてまた会って自分の考えも話すことができた。それだけでも満足してる。誤解されたままでいるのは、俺自身を許せなかったから。でも再会するまでにこんなに間を開けてちゃ、男として情けなさ過ぎるな」
 きっと愁はあれだけ裏切られても、一日でも早く俺に会いたがっていたはずだ。それをわかってたはずなのに、その気持ちを見て見ぬふりをしてた。最悪過ぎるな、俺。
「たその言いたいことはわかるよ。でも、どうしても納得できないの」
 愁は零れ落ちる涙を両手で拭う。
「だって納得しちゃったら、本当にたそが遠くへ行っちゃうもの……」
 顔をくしゃくしゃにしてしゃっくりを続ける愁に、ズボンのポケットに入れてあったハンカチを渡してやった。普段全く使わないのに、こういう時に必要になるなんてな。
 俺は目を逸らさず、愁の泣き顔を真正面に見つめる。
「悪い。その言葉以外、愁には言えない。俺をここまで連れてきてくれたきっかけはおまえだよ、愁。何度も何度も俺が辛い時に助けてもらった。感謝しきれないくらいに」
 語りかけながら、愁との関係に終わりが近づくのを感じる。 
「やめてよたそ、そんなこと言うの……。何だか最後の別れみたいじゃない」
 二度と会えなくなるわけじゃない。でも、愁と一緒に過ごした日々は、遠い想い出になってもう戻らない。絡み合った2人の鎖が、外れていく。
「俺が今でも歌い続けていられるのは、愁のおかげだよ。心からありがとうを言わせてくれ、ありがとう。こんなろくでもない男に尽くしてやれるおまえは、本当にいい女だよ」
「やめてってば……」
「何もこれが最後じゃないさ。ただ、俺なりのけじめのつけかただ。これからも愁とは、いい関係でいたいと思う。無茶言ってるのは自分でもわかるけどさ……。これだけは言わせてほしい」
 愁の眼前に顔を近づけて、その表情を目に焼き付ける。俺に初めて人の愛し方を教えてくれたひと。その優しさと温かさを、一生忘れない。
 そして、心からの謝罪。
「俺を許さなくてもいい、最低な男だと罵ってくれ。ごめん」
 自分の膝に額がつくくらい、大きく頭を下げる。針山の上で土下座しようと、俺の罪は赦されない。行動で自分の気持ちを全て伝えられないのがもどかしくて、涙が出る。
「バカ……ほんとにたそって、大バカなんだから……」
 愁は俺の肩に手を置いて、涙を零す。そのまま俺の頭に覆い被さるように俯いて、嗚咽を漏らし続けた。その泣き声を、日が完全に沈むまで俺は耳元でずっと聞いていた。


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