→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第3巻

   078.ロングハンド、ショートハンド

「よし、今日はこれまでにしよう」
 青空の一言で、スタジオ内の空気が和らぐ。だけど俺の心はため息一つつけないほど、深く沈んでる。
 何故なら、今日もまともに歌うことはできなかったから。
 歌のいいテイクが全然取れないので、しょうがなく仮歌状態で録音したのを使って自分のパートのリズムギターを入れてみるけど、気持ちが乗ってないのを耳にして楽器を弾いてもいい結果に繋がらないのは当然のことだ。
 とは言え、録音なのでいつものようにギターを弾きながら歌うこともできない。慣れない録音作業に俺は四苦八苦してる。 
 これじゃ溢歌にもらったこのギターも宝の持ち腐れだ。へこんでばかりもいられないので頑張ってみるけど、気合いが空回りしてるのが自分でもよくわかる。
 青空は周りが思ってる以上に録音作業に打ち解けて、自分のパートをてきぱきとこなす。イッコーと同じくもうほとんど録り終えてて、細部の修正をおやっさん達と一緒にしてる。わざわざスタジオの空いてる時間を狙って部屋を借りて、ミックスダウンに明け暮れる。
「俺が唄ってからのほうが、いい演奏ができるんじゃないか」
 なんて持ちかけてみたら、一笑に付された。
「もちろんそうだと思うけど、僕と黄昏の後先なんてそれこそステージの上じゃないと再現できないしね。ライヴテイクなら話は別だけど、これはちゃんとしたスタジオ録音だから。資金面もあるからあんまり制作期間に時間をかけたくないし、僕やイッコーの演奏で黄昏の気持ちが盛り上がってくれればいいよ。今は喉の負担できつい時期だろうけど、一気にやらずに少しずつでも進んでいければ、それに越したことはないよ」
 そう慰めの言葉をかけてくれるものの、あまり気休めにはならない。何にしろ、思い通りに歌うことができないこの状況が一番もどかしい。一曲通しで歌わないといい調子にならないと思ってても、それをやるだけで喉に負担がかかる。こんな調子じゃライヴなんて絶対にできそうにない。やっぱり今からでも手術したほうがいいんじゃないかと思う。
「したところでその後にたくさん歌録りしなきゃならないんだし、病み上がりに負担をかけるほうがかえって辛いんじゃないかな。アルバムが終わってから、ライヴやるまでにするかどうかみんなで決めてもいいと思うよ」
 結局どっちを選んでも苦難の道が待ってると思うと、とてもげんなりする。そもそも、まだ千夜が戻ってこられるかどうかわかってない。もうそろそろ受験も終わってていいはずなのに、なんて思ってると、青空のほうから切り出してきた。
「千夜は……もう受験は終わったみたい。だけどその後、まだ連絡がついてない状態なんだ。家に押しかける訳にもいかないしね。まだ合格通知も出てないのかも。千夜の事だから、後で連絡ぐらいくれるものだと思うけど……」
 比べちゃいけないけど、愁よりも千夜のほうが肉体的にも精神的にもダメージは大きかったはずだ。ましてや襲われたおやっさんのスタジオでなんて録音できるわけがない。俺達は資金面でここを使うことは多いけど、青空の働いてるスタジオやラバーズのマスターのツテで借してもらったスタジオも使ってる。ここで演る場合はなるべくもう一つの部屋を借りるようにしてるけど、千夜が襲われたほうに入る時はさすがに気まずくなる。それは他のメンバーも一緒のようで、みんな口には出さなくても楽器を奏でる音色が変わる。
「結局、CD作った後のコトは決まってないのよねー」
 差し入れを持ってきてくれたキュウが両手を上に向けてため息をつく。
「ホントにおねーさま、戻ってきてくれるのかしら……このままじゃ、バンドのお金も尽きちゃって活動さえままならなくなっちゃうわよ」
「僕達は信じるしかないよ。最悪の事を考えても仕方ないからね」
「そーそー。千夜以外に俺達のバンドのドラム叩けるやつなんていやしねーんだから。ヘルプ雇うわけにもいかねーし、そんな技量のあるやつそうそう転がってねーし。千夜が戻ってこなけりゃこのまま解散だな、はっはっはっ」
 イッコーはわざとらしく笑ってみせる。しかしその可能性も捨てきれない以上、俺達も笑い飛ばすことはできなかった。
「解散か……前みたいにボロボロになってってわけじゃなくても、バンドが立ち行かなくなることってあるんだな」
 俺の呟きに、みんなしゅんとなってしまう。以前俺達の仲がギクシャクした時には、愁とキュウが目の前に現れて救ってくれた。あの時は意思の疎通がみんなの間で計れてなかったから起こってしまったことだ。一番の原因はさぼりすぎてた俺にある気はする……あまり昔のことは思い出さないようにしよう。
「バンドが立ち行かなくなったら、イッコーはどうする?」
「え、おれ?そーだなあ……多分今と同じ立ち位置でバンド組んだりどっかに入るのはムリだって思うわ。たそがヴォーカルやってる横でベース弾いてると、ますますそう感じるわな。ま、キュウに勧められて渋々俺もヴォーカルやってっけど、これはこれでアリだと思ってっから、『Days』が休んでる時は自分でヴォーカルやれるバンドでも作っかなー」
 イッコーはまんざらでもない顔で答える。『Days』以外何もない俺と違って、イッコーには人脈もあるし技量も人望もある。俺より若いけど、どこでもやっていける力量をすでに兼ね備えてるのは周囲も認めるところだ。俺達と組んでなくても、数年もすれば普通に音楽雑誌に顔を出せるような器だろう。
「青空は?」
 尋ねてみると、少し難しい顔をする。
「僕の場合は黄昏と一連託生だからね。何しろ、『Days』は黄昏を誘ってバンドを始める為に立ち上げたようなものだから。新米の僕はおまけでね。今では体裁を整えられるくらいの演奏はできるようになったけど、それもこれも黄昏のおかげだよ。そうだなあ……バンドが立ち行かなくなったら、僕はしばらく休むかな。音楽を辞めるなんて事はないけど、もうちょっとゆっくりと自分の事を考えてみたいと思う。って、今そんな事考えても仕方ないけどね。目の前のCD作業に全力投球だよ」
 そう答える青空は、以前よりも随分と大人びて見えた。いつの間にか、みんなをまとめる風格みたいなものが出てき始めた気がする。それだけいろんな苦難を乗り越えてきたんだ。その中に俺が足を引っ張ったことがたくさんあって、申し訳ない気持ちで一杯になる。
「その時にはうちのスタジオでも手伝ってみないかい?」
 受付のカウンターに座って俺達の話を聞いていたおやっさんが誘ってくる。
「そうですね、もしその時が来れば考えてみます。今何もしてないし」
「あれ、青空おまえ別のスタジオで働いてるだろ」
「あ……」
 俺に指摘されるとまずい顔で口元を手で塞ぐ。その後諦めたように肩をすくめた。
「黄昏には言ってなかったね、って両親にもまだ話してないんだけど……CDの事もあったし、しばらくバンドに全力投球したかったから今年に入ってから辞めたんだ。少しすればあっと言う間に生活費もなくなっちゃいそうだから、春からまた始めなくちゃね」
「それならちょーどいーじゃねーか。おやっさん、こいつ雇ってくんねー?」
「ちょっと、イッコー」
「構わんよ。そろそろ一人でこのスタジオ開けてるのも辛くなってきた年頃だからのう」
 そう言っておやっさんは老人の真似をしてわざと咳をついてみたりする。白髪混じりのロマンスグレーな髪とは言え、そこまで老けてるわけでもないのに弱音を吐くのは青空のことを親身に思ってるからか、この前の事件で一気に老け込んでしまったのか。
「アタシもいいと思うわよ。だってそしたらタダでスタジオ借りれるしー」
「そんな図々しい真似出来る訳ないでしょ。すいませんおやっさん」
「少しくらい安くしてだったら構わないよ。でも結構大変だよ、一人じゃ掃除だけでもままならないからね」
 キュウの無茶な要求を笑い飛ばすおやっさん。あの事件があってから、バンドの俺達との仲が急速に深まった気がする。それだけ青空も千夜も、ずっと気にかけてもらってた。ありがたいことだ。
 しばらく青空の次のバイト先で話が盛り上がる。俺はと言えば、そんなバンドが立ち行かなくなった後のことなんて考えもしなかったし、想像もつかない。第一そうなった場合、原因は100%俺のせいだと思ってたし、歌わなくなった俺に生きる価値なんてもはやないから、暗闇しかその先に見えてなかった。
 溢歌がそばにいてくれる、それだけで俺はこれから強く生きていけると思っても、じゃあどうやって生きていかなければならないかだなんてまで、俺はまだ考えたことも経験したこともない。ずっと亡くなった親の遺産を食いつぶしてるような状況で、いつかは必ずそのお金も尽きるだろうし、それまでのんびりと生きてるわけにもいかない。
 じゃあ何をしろと言われたら、俺には歌うこと以外何もできない。だけど、隣に青空がいないと何もできない。おんぶにだっこな状態なわけで、『Days』が止まってしまったら俺の心臓も止まってしまうも同義語だ。冷静に考えると、物凄く怖かった。
 将来このメンバー以外の連中とバンドを組んだりすることもあるんだろうか。それが自然の成り行きだとしても、受け入れられる自分がいるんだろうか。まだ自分の部屋で一人、暗闇を見つめて嘆いてるほうが楽だったように思えるのはおそらく正しい。
 それぐらい、俺の目から見える社会や現実は暗中模索だ。目を閉じながら歩いてるようで、いつ谷間に足を滑らせて落っこちるかわからない。そんな得体の知れない恐怖が、溢歌と一緒に生きていくと決めた日から徐々に俺を蝕んできてる。
 愁を切り捨ててしまったことで重しがなくなったかと思ったら、かえって拠り所がなくなってしまって苦しくなってる俺がいる。そばに溢歌がいればこの苦しみも感じずにいられるのにと思うと、一刻も早く戻ってきてくれと願わずにいられない。
 心の苦しみを吐き出すことが生きる上でとても大切なんだと、愁達に教えてもらった。和美さんと絡み合った時に多少楽になったのは、実に即物的で、あれっきりだから許せるものだ。あの時は和美さんも辛かった時期だし、心に傷を負う者同士がちょうどそばにいたから肌を重ね合った、そんな一時の気の迷いだ。
 それがわかってるからか、和美さんもそれ以上俺と連絡も取ってこない。イッコーにも体を許したって言ってたけど、当の本人は俺達の前で和美さんの話題はしないし、そんな素振りも見せない。2人共わかってるから、あの日のことは心にしまって鍵をかけておく。
「じゃあ、帰ろうか」
 録音のためにスタジオに入った後は、イッコーの店で食事がてらに軽くミーティングするのが恒例になってた。おやっさんに別れを告げ、地下鉄で水海まで戻る。距離的にはそこまで離れてないけど、この季節に外を歩くのは冷えすぎてたまらない。旧暦で言うと一月だから、この季節が一番寒いか。
 いつもの唐揚げ定食を頂いて、一足先に俺は引き上げる。青空はイッコーと一緒に2階の部屋で録り終えた音の調整をあーだこーだとしてる。俺自体は普段ライヴでやってる時のような音が再現されれば他に何もいらないって言ってるので、判断は任せっきりだ。キュウもいるし、仕上がりに関しては問題ないだろう。
 それ以上に俺がちゃんと歌えるかどうかが問題だ。日に日にプレッシャーが圧しかかってきて、喉の痛みと重なって焦燥感に変わってる。焦ったところでどうにもならないのはわかってるから、喉をできるだけいい状態にして録音に望まないといけない。
 昔の俺なら、とっくに逃げ出していたはずだ。いや、今の俺も逃げ出したい。どうしてそこまで無理してCDを作らなきゃいけないんだ。俺達のステージを観に来てくれるライヴで十分だろ?なんて自問自答はそれこそ数え切れないくらい、した。
 むしろ、俺が自分自身に足かせをはめた感じがする。ここで乗り切れないようなら、これから先、現実の荒波にさらわれてお陀仏になるのも目に見えてる。ここが試金石なんて意欲的にもなれないけど、乗り越えなきゃいけない壁だってのは十分理解してる。
 それだけに今の状況に疲弊してる俺がいた。怒鳴り散らすように歌いたいとか酒でも飲んで気を紛らわせたいと思っても、喉に負担がかかることは厳禁だ。そもそもホントに治ってるのか俺の喉?って毎日思う。自然治癒に任せても、良くなってる気配がしない。実際は良くなってても、そう思えないだけなのかもしれないけど。
 だけど病は気からとも言うし、弱い気持ちが歌うことを阻害してるようにも思える。
 今日もまた、暗闇の中で布団に包まって一人眠る。光もないこの時間が一番寂しい。以前よりも孤独を感じてしまうのはどうしてだ。それが嫌で電気をつけっ放しにして寝ると、目覚めた時に疲れが取れた感じがしないので逆効果だ。ジレンマがとてももどかしい。
「おねーさまがようやく復帰するって!!」
「……至近距離で鼓膜破れるような大声出すなよ馬鹿」
 この冬一番の寒波が吹き荒れる週の半ば、いつものように録音作業でスタジオに顔を出すと、ようやく重い空気を振り払ってくれる朗報が届いた。
 しかし、耳がキンキンする。興奮してる目の前のキュウの脳天にチョップを食らわすと、頭を押さえてうずくまった。
「だってすっごく嬉しかったんだもん」
 涙目だけど、綻んだ笑顔が止まらないキュウ。
「千夜のことだから、ある日突然何も言わずにしれっとスタジオに顔出しそうなものとばかり思ってた」
 あいつが何を考えてるのかよくわからないところは、溢歌に似てる。そんな溢歌も未だに帰ってくる気配がなくて、自宅に帰るたびに孤独を感じて結構辛い。この季節だと路面が濡れてスリップする可能性が高いので、バイクに乗れないから溢歌の家へ行く機会も前より減ってる。行ったところで、家に染みついた溢歌の匂いを感じ取ることもできずに、余計寂しくなるだけだ。
 このまま俺が想い出や記憶を消してしまうと、溢歌の存在自体がこの世から消えてなくなりそうな錯覚さえしてしまう。もちろん青空や愁達が溢歌のことを忘れるはずもないから、ありえないことに脅える必要もないか。
 ともあれ、録音状況がこれで改善されるのかと思うと心持ちも随分楽になる。音を全部録った後だと、俺も歌いやすくなる。
 もちろん足を引っ張ってるのは十分承知してるし、千夜が戻ってきたらこっちに降りかかるプレッシャーも増す。でも今は心から千夜の復帰を喜びたい。
「受かったのか?音大」
 向かいのソファに腰掛けてホットコーヒーを飲む青空に尋ねると、首を傾げる。
「結果はまだ先の話なのかな?来月判るって前に言ってた。いつ戻って来るのかも、僕が直接聞いた訳じゃ無いし。今日ここに来てキュウに知らされたばかりだもの」
「えへへー、だってだって、みんなをびっくりさせたかったんだもの」
 嬉しそうにはしゃぐキュウはいつも以上に調子がいい。最近心底笑うキュウの姿を見てなかったので、心が和らいだ。まさかキュウからそんな感情を得るとは思いもしなかった。
「でもかなり無理してないか、それ」
 身も心も汚された女の子の気持ちなんて想像するだけで滅入ってしまう。現在の千夜の心境がどうなってるかなんて、男の俺にわかるはずもない。
「おれからすりゃどんな状態でもいいテイクで叩いてくれりゃ万々歳だわな〜」
 おやっさんに小銭を払ってボトルのコーラを手に戻ってきたイッコーが、楽観的に呟く。
「一応俺の音はほとんど録ってるけど、ドラムがいないと細かいリズムまでは掴めねーしな。あいつなら、俺が録ってる音に合わせて叩く技術は十分あるから、そんな心配してねーけど」
 以前録ったテープの時と違って、生演奏をそのまま録音してるわけじゃない。そのギャップに俺や青空は戸惑ってるけど、2人にはノウハウがあるのでかなり助かってる。
「ただ、これまでみてーに接することができるかどーかってのは、また別の話だわな」
 キャップを外してラッパ飲みをするイッコーの言う通りで、ギクシャクした空気が生まれることは間違いない。俺やイッコーはまだいつも通りに振る舞えそうだけど、俺達より親しい青空やキュウ、そして千夜本人がどう接することができるのか?
「千夜のことだから、サラッと流しそうな気はしなくもないけど」
 希望的観測を込めて呟くと、横に座るキュウから左耳を思い切り引っ張られた。
「いたたたた。何すんだよ」
「乙女の純心がそんな強いモノなワケないでしょーが!次から冗談でもそんなコト言ったら容赦しないわよ」
「わかったわかった、俺が悪かった」
 千夜のことになるとキュウは態度が一変する。2人が出会った頃からゾッコンだったけど、千夜があんな目に遭ってからはますます親身に、より過保護になってる。
 その思い遣りが本人に余計なプレッシャーをかけなきゃいいんだけどな。
 この日の録音は、最近の中で一番順調に進んだ。先が不透明な状態から一歩進んだおかげで、全員が前向きになれたのもある。俺も喉を酷使しないよう、次の録音に影響が出ないくらいに熱心に歌った。相変わらずプレッシャーのせいで夢見はよくないけど、それでも千夜が戻ってくるとわかったら、日常の心持ちも幾分軽くなった気がする。
 週末まではあっという間で、青空のバイトしてたスタジオで千夜と一緒に入ることが決まった。先に青空達と合流してるらしくて、俺は直接スタジオに足を運ぶことにした。
 事前に会ったところで、一体何を話せばいいのか言葉が思い浮かばない。
 どうせ気休めの一つ二つ、上手い言葉も言えずに終わってしまうのがオチだ。愁と再会した時と同じで、どんな慰めの言葉をかければいいのかさえわからない。何より千夜自身があの事件の後、どれだけ変わってるかを想像するだけでため息が出る。この季節だと吐息が白くなるから憂鬱な自分が目に見えて嫌になる。
 電車を使ってスタジオへ。今日は帰りの足で溢歌の家に寄ろう。誰もいないのはわかってるのに溢歌の姿ばかり求めてしまう。最後に姿を見てから随分と経つ。俺には待つことしかできないので、とてももどかしい。あいつが帰ってきたら、これまでのことを全て打ち明けてもらおう。そして、俺の苦しみも聞いてもらうんだ。
 太陽の低い冬空の下、思いを馳せながらスタジオの前まで歩いて行くと、入口前で厚手のパーカーを羽織ったイッコーが俺を見つけて大きく手を振った。
「わざわざこんなクソ寒い中、外で待たんでも」
「まー、なんだその、ちょっと居たたまれなくなったっつーか」
「そんなに千夜の機嫌が悪いのか?」
「うーん、そーじゃねーんだけど。むしろこっちの調子が狂ってるかんじ」
 イッコーが困った顔で頭を掻いてるのを横目に、スタジオの中に入る。今日入るのは一階で、ロビーから繋がる休憩所にちょうど部屋の中から青空が出てきた。軽くあいさつ。
「千夜は?」
「今、中で練習中。今日は音を録るというより、千夜がどれだけ叩けるかを見るための集まりだから。一応次スタジオ入る時に、マスターに直接来て見てもらう予定」
 今回のCDの録音に関しては、セルフプロデュースということになる。ラバーズのマスターが趣味でやってるCDレーベルで出してもらうことになってるので、もちろんある程度の水準は求められる。ただ今回は俺達に任せるみたいで、その意図はよくわからない。
「プレス代はこちら持ちだけど、スタジオの代金はマスターが出してくれてるからね。これまで録った音は定期的に聴いて貰ってるけど、反応はいいよ。と言っても、ほとんど僕とイッコーの演奏だけなんだけどね……」
 青空の泣き言が耳に刺さる。どうしてこんな大事な時に喉が潰れるのかと腹立たしくなるけど、なってしまったものを悔やんでもしょうがない。俺のことより、今日は千夜だ。
「あ、ちょっと待って。もうちょっとしたら出てくるから」
 俺がスタジオのドアの取っ手に手をかけると、青空が呼び止めた。首を傾げる俺に青空が近寄って、小声で語りかけてくる。
「狭い空間にいきなり男の人が入ると、千夜が癇癪を起こすかもしれないから。中にキュウが入って、邪魔にならない位置に居て貰ってるけど、さっき僕ら男2人が一緒に入っただけで、難しい顔をしてたから」
 ……そんな状態でドラムなんて叩けないだろ、絶対。
 内心諦めつつ、自分の準備を始めながら千夜が出て来るのをブースの外で待った。
「たそ、おそーい!」
 部屋の中から出てきたキュウが俺目がけて飛びかかってくる。クロスさせた両手が胸に直撃して、鴨が締め上げられたような鳴き声を上げてしまう。
「ホントにこいつは……と、千夜、元気か?」
 キュウにフェイスロックをかけたまま、一緒に部屋から出てきた相手に向き直る。
 いつも通りの黒づくめの手足の隠れたスーツで、トレードマークの黒縁丸眼鏡をかけて、艶のある黒髪も整髪料で横跳ねさせて、見た目は全く変わらない。
「……黄昏」
 俺の姿を見つけて、千夜が珍しく俺の名前を呼んだ。
「何だよ、いつもはお前とか貴様呼ばわりなのに。気味悪いな」
 わざと茶化してみせるとキュウが喚こうとしたので、顔を押さえる手で口を塞ぐ。
「……ごめんなさい。バンドに迷惑、かけた」
 伏し目がちに俺に謝ってくるその姿が痛々しい。その場で大きく笑い飛ばしてやろうかと思ったけど、喉に負担をかけるのは嫌なのでそのまま黙っておく。キュウが俺の手を振り払って、千夜のそばに逃げていった。
 改めて、千夜の全身を上から下まで眺める。見た目は普段と同じだ。だけど心の中にどれだけの傷を隠してるかを想像するだけで、俺の表情が歪みそうになる。
「…いいのか、その格好で」
 あえて酷い質問をぶつけてみた。千夜がこの場所に戻ってくるには、相当の覚悟があったはずだ。こんな格好をしてバンドをやり続けたからこそ襲ってきた悲劇。投げ出しても誰も文句は言わない。だけど千夜は、同じ格好のままここに立ってる。
 普段から千夜がどういう理由でこの格好でステージに上がるのか、俺はよく知らない。直接訊いた記憶もない。指摘して喧嘩になったことはあったっけ。おそらく青空やキュウは本人から教えてもらってるだろう。だけど俺にとっては、どんな姿だろうが後でドラムを叩いてくれる千夜がいればいい。俺に殺意の籠もった視線を向けながら、きっちりと自分の仕事をこなしてみせるそんな千夜を、俺は心のどこかで信頼してるんだろう。
 しばらくの沈黙の後、千夜は小さく肩をすくめてみせる。
「貴様に心配されるほど、私は落ちぶれていない」
 いつもの減らず口が返ってきて、俺は思わず口元を緩めた。きっと今の言葉も、千夜は精一杯の虚勢を張って口にしたんだと思う。そんな前を向こうとする千夜の姿勢が、羨ましくもあった。
「ドラムを叩くには、これしかないから」
 千夜は手に持った黒のドラムスティックを握りしめて、強い口調で言う。
「じゃあ、音合わせしよう。この前会った時に言ったっけ、俺喉痛めてあんまり声出ないから、優しくな。俺もお前に何も文句は言わないから」
「……感謝する」
 千夜の口からそんな言葉が出てきて、目を丸くして思わず青空と顔を見合わせた。そこに缶コーヒーを飲み終えたイッコーが戻ってくる。
 4人揃っただけで、何でもできそうな気がしてくる。
「ホラホラ!さっさと全員中に入っちゃいなさいよ!」
 嬉しそうな顔をしたキュウが俺達の背中を押してスタジオに入れる。このみんなが集まってるバンドの日常は、実は凄く貴重なものなんじゃないかと今更ながらに思った。
 ――そのことを、後になればなるほど噛みしめることになる。


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