→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第3巻

   080.ヨゾラノムコウ

 嫌な夢を観た。
 ステージの上に立って、とっくに開演してるのにいつまで経っても歌えない自分がいる。
 客席からは野次と怒号が飛んできて、うろたえる俺はステージを見回して助けを求めると、バンドの3人がいつになったら歌い出すのかじっと待ってる。大声で呼びかけても返事もしないで、黙ったまま難しい顔で狼狽してる俺を眺めてる。
「歌えない、歌えないんだ!」
 これは夢だ。
 頭の中じゃそうわかってるのに、焦りまくる俺がいる。だってこの状況は、現実の俺を反映してるものだって理解してるから。
 ステージ上から目に映る全ての人間の視線が、一様に俺に向いてる。羨望と侮蔑の交じった眼差しで、俺が歌い始めるのを今か今かと待ってる。
 俺が歌えないって、みんな知ってるんだろ?
「わかってるんだよ、そんなことは!」
 そこで大きく目を見開いて、現実に引き戻された。視界に映るのはまだ夜も明けてない、真っ暗闇の自分の部屋と頭を預けてる枕元だ。
 俺は今すぐ観てた夢の内容を考えないようにして、何度か寝返りを打った。
 今日は一段と冷え込んで、目覚めるのも辛かった。暖房をつけると確実に喉がやられてしまうので、加湿器でも買ってしまうかと考えたけど無駄遣いはしたくない。やかんで湯を沸かしたまま眠ると大変なことになるので、家で起きている間に湿気を取り入れるけども室温は大して上がらないから、眠る時は分厚い布団にくるまってる。すると掛け布団の重さで寝返りが打てないので、余計に寝覚めが悪い。イッコーに相談したら、使ってない電気あんかをくれたのでそれで多少マシになったとは言え、気を抜いたらすぐに風邪を引いてしまいそうだ。
 インフルエンザが流行ってるからってキュウがスタジオにマスクをつけて来てたのを見て、さっさと帰らせようとしたら青空にたしなめられた。真冬でも太股を見せつけるような格好でいるから風邪引くのに、こっちにも移す危険性ぐらい考えてほしいもんだ。
「ほらコレ、愁からの差し入れよ。どんな心境の変化があったのかしら」
 眉を半分つり上げて、キュウが具だくさんのおにぎりの詰め込んだランチボックスと、と喉に効くハーブティーを水筒ごと手渡してきた。風呂敷を開けるとカードが挟まってて、『これ食べて元気出してね。風邪には気をつけなきゃダメだよ。 愁より』
と懐かしい丸文字で書かれてた。それを手に顔がほころんでるとキュウが茶化してくる。
 適当に追い返して、差し入れをたらふく頂く。喉を痛めてから普段食べる量も減ってきてたので、俺も千夜と同じで随分とやつれて見えるらしい。
 しかし愁の気持ちはありがたいものの、現状はなかなか好転してこない。
 むしろ今は無理にでも前に進んでるような状況で、かなりガタガタだ。それでも録音したのをまとめ上げると十分すぎるクオリティに聞こえてしまうのは、イッコーの腕が大きいだろう。俺や千夜が録音した部分に合わせて、先に録った部分を青空と一緒に新しく録り直してる。そうやってしっくり来ない部分を埋めて行ってるので、形にはなってた。
 とは言えまだ一曲も最後まで完成させてない。曲同士のバランスもあるし、まだ直せる部分があれば、余裕を見て差し替えたいようだ。今の俺にはそんな余裕は全くないので、できればと言う希望的観測も交じってる。
 千夜が肉体を酷使しすぎて、スタジオに入れない日もあった。復帰してからはいつもキュウと一緒に来るけど、その日は集合前にキュウから電話連絡があって、珍しく疲労で寝過ごしてたようだ。青空の判断でその日の千夜の録音は全て取り止めで、キュウは千夜を整体マッサージに連れていって疲労回復に努めた。もちろんその埋め合わせは、俺に来たわけだが。
 数週間前の意気込みはどこへ行ったのか、すっかり気弱な俺がいる。
 モチベーションを上げる劇的な変化でもどこからか降って来ないかと期待したところで起こるはずもなくて、苦行のような収録作業が続く。スタジオ入りのない日は溢歌の家に電車で足を運んでみるものの、いまだに帰ってくる気配はない。いつももぬけの殻だ。
 最後に会ってからかれこれ二ヶ月近く経つ。暦の上だとそろそろ春を迎えるころだと言うのに大海原から打ちつける冬の海風は恐ろしく冷たくて、剥き出しの肌を凍らせる。溢歌の家にもあいつがいた記憶がだんだんと薄れていってるように、空虚が広がってる。
「この先に、何があるんだろう」
「んっ?」
 スタジオに入ってる途中、ヴォーカル収録の合間にふと呟いた言葉にブース越しのイッコーが反応した。その姿を目で捉えて、自嘲気味に言ってみせる。
「これで全部録り終わって、CD出して、ライブして……その先に何があるんだろうな」
「その先ねぇ……。その先にあるのは同じことの繰り返しよ、多分」
 顎に手を当てて考える素振りで、あっさりと答えるイッコーの声がブースのスピーカーから聞こえてくる。
「ぶっちゃけて言うとそーゆーことよ、一年に春夏秋冬が訪れてぐるぐる繰り返すように、おれらも生きてるんだわ。そん中でどんな新曲と巡り会うか、いいライヴができるか、それはやってみねーことにはわかんねーしなー。だからその先なんてあんま考えねーよーにしてるわ。たそだって今しかずっと見てねー生き方してんだろ?」
 まさかイッコーに諭されるとは思わなかった。溢歌と出会うまではそれこそ明日のことさえ考えようともしない生き方をしてきて、今後のことを少しずつ考えられるようになったのはごく最近のことだ。
 先の未来に希望を託すことによって、今の苦しみを軽減する。そんな日常の過ごし方が人間の基本的な生き方なんだろう。夢だとか願望だとか、そういうのを追い求めて今を生きる。そういうのを俺もずっと心のどこかで望んできたはずだ。
 しかしそれも、俺には隣に溢歌がいないことには始まらない。会いたい時に会えないのがこんなにも苦しいなんて。ずっとあいつには振り回されっぱなしで、日数にしてみれば人生の中のほんのわずかな時間ではあるけど、それでもかけがえのない大切なものだ。
 未来に何が待ってるかなんて誰にもわからない。俺は一体、溢歌と過ごす日々に何を求めてるんだろう?一緒にいられれば他になにもいらないなんて言うつもりはない。俺にとっても溢歌にとっても、歌うことはとても大切なことだって遺伝子に組み込まれてる。
 だけどこんなに苦労して歌うことで、俺は一体何を遺せてるんだろう?
 人前で歌うことは好きか嫌いかと言われると、どちらでもない。自分の歌声が誰かに届く、それは孤独を感じなくて済む、とても幸せなことだ。だからと言って名前も知らない不特定多数の人間よりは、身近にいる人間に届いてほしい。青空や、イッコーや千夜や、愁やキュウや、みょーや和美さん、他にも俺が知ってる全ての人間に。きっとそれが嬉しくて、俺は青空の誘いに乗って部屋から出たんだと思う。
 そして溢歌と出会えた。
 そこで色々と自分の中で心境の変化が起こってるのを実感する。だけどそれはまだ変遷の途中で、些細なきっかけで形が変わるいびつなものだ。心の中がざわめいてるのを感じる。価値観やら何やらが変わってきて、自分の中での善し悪しの判断がつきづらくなる。
 俺は一体何を迷ってるんだろう?
 前にバンド休止の話題を青空に持ち出されてから、頭の中を様々な考えが駆け巡る。
 これならまだ喉の痛みと格闘してるだけの日々のほうが、余計なことを考えずにいられて気楽だった。
 いい歌を唄いたい。それがずっとできずにいるから軟弱になってるのか。
 随分と後ろ向きになってる自分に気付く。血反吐吐きそうな顔色でドラムを一心不乱に叩く千夜を見てると余計に思う。あいつのドラミングも事件から復帰した後はすっかり安定さを欠いて、このままじゃライヴもままならないだろう。いや、それ以前に人目に晒される場所に立てるかどうかさえ疑問だ。
 それでも千夜は諦めてない。そのひたむきさに、そばにいる俺は圧倒されてしまう。ドラミングしてる姿をブースのガラス越しに眺めてると、不意に涙腺が弛むことがある。千夜の想いは他のみんなにも伝わってて、青空もイッコーも真摯に受け止めてる。キュウもそんな千夜の生き様に惚れて、懸命にそばで付き添ってるんだろう。
 何だか、俺一人だけ蚊帳の外にいる感じだ。
 おそらくそれは、バンドに組み込まれてない溢歌の存在に依存してるからか。今思えば青空も溢歌と一緒に過ごしてた時は、どこかよそよそしくて、バンドに対して本気で取り組めてないような姿勢だった。
 魔性の女――と言うつもりもない。『Days』も溢歌も、どちらもなくしたくない。その二つは俺にとって天秤にかけられるものじゃない。自分を形作る大切なピースで、どちらかが欠けてしまっても、俺の歯車は上手く回らなくなってしまう。時計の長針と短針のようなものだ。
 俺にとって歌い続けることは生きることと同じだ。『Days』はそのための場所だ。
 だけどもし、歌えなくなった時はどうなるんだろう?
 そんな恐怖を、声が出なくなって初めて感じた。
 いつまでも歌い続けられるって何の根拠もなしにずっと思ってた。だけど現実は俺に肉体が存在して、疲弊した喉は声を潰して思い通りに歌えなくなる。
 音源で自分の声を聴くのは大嫌いだけど、自分の脳に直接響く歌声はとても気持ちいい。その快感さえも得られない状態で今は歌い続けてる。常に冷や汗をかきながらマイクの前に立ってる。自分の歌声に限界を感じたのは初めてだ。
 スタジオに入らない日に、定期的に喉の調子を確認するために通院してる。もちろん状態は改善されるはずもなくて、むしろ悪化してる。医者はなるべく早く手術するほうがいいと言うけど、回復にどれだけ時間がかかるのかを尋ねたら絶対にCDとライヴを延期しなきゃいけないほどの長さなので、今は我慢するしかない。
 だけどこんな俺の今の歌声で、みんなは満足するのか?明日ステージに上がれと言われたら、俺は全力で断る。残念な目で見られるのは別に構わないけど、自分の思い通りに歌声を届けられない。想いが伝えられない。それがとてももどかしい。
 何でこんな状態でずっと無理をしてるのかと突っ込みを入れたくなる。結局、今の俺はただ周りに流されてるだけだ。自分で望んで歌ってる感じはしない。だからなのか、モチベーションが上がらずに身が入らない。そんな状態の俺を青空達も気付いてるようで、徐々に録音のダメ出しの回数も増えてきた。
「一体何で俺は、あんなに無駄な時間を……」
 何度目かわからないテイクのダメ出しを食らったところで、足下に視線を落として呟く。
 一人でずっと籠もりきりで、ただがむしゃらに白い壁に向かって歌い続けた日々。あんな中で喉を酷使しなけりゃ、今のこんなみじめな状態にならなくても済んだんじゃないか。そう考えるととても悔しい。
「まーまー、あんまり落ち込んでないで、愁の差し入れでも食べなさいよ」
 千夜が録音の出番で入れ替わりにブースに入って、俺は休憩室のソファに力なく体を投げ出してしょげてるところにキュウが頭上から声をかけてきた。慰められてる自分がとても情けない。差し入れのサンドイッチを頬張りながら、ハーブティーを喉に流し込んでる自分の姿がとても惨めだ。
 今の俺は愁の期待にすら応えられてないじゃないか。
 自分自身に対するふがいなさと苛立ちが募るばかりだ。こういう時、愁がそばにいればSEXに逃げてたんだと思う。それでどうなるわけでもないただの逃避行為を、あいつは何度も受け入れてくれた。
 愁への未練がないわけじゃない。でも自分からその手を離さないと、いつまで経っても俺はあいつを頼ることになってしまう。それに、溢歌へのけじめがつかない。
 だらだらひきずるのがロックな生き方だなんて昔の人は言うかもしれないけど、俺はそこまで腐っちゃいないつもりだ。いや、これまでで十分腐ってるか。
 録音が全て終わった後、俺は心から解放されるのか?思い通りに行かなかった自分への罪悪感で押し潰されそうになるんじゃないか?今でさえこの場所から逃げ出したいくらいなのに。
 家に一人でいる時は、ひたすら溢歌に貰ったギターを奏でる時間が増えた。周りに薦められて始めたギターは、これまであまり愛着がなかった。自分から進んで弾くようになったのは、溢歌がこのギターをくれたおかげだ。
 アンプに繋いでなくても美しい弦の響きが室内にこだまする。このギターを弾いてると、心が落ち着くというか、意識が海の底へ沈んでいくような錯覚に陥る。
 まるで深海の中にいるような、頭上に揺らめく光の水面を仄暗い水の底から眺めてるような感覚。とても静かで、外界から遮断された独りだけの世界。
 そこはとても甘美で、長くいると地上での生活ができなくなりそうで引き返せない冷たい場所。ここに留まっちゃいけないのに、深みにはまり込んでしまう。
 幸せと不幸せが背中合わせになってるような、奇妙な意識。
 このギターの元の持ち主の感情が流れ込んでくるような、不思議な感じがする。俺はどこかでこの感覚を知ってる気がするけど、思い出せない。
「たそがそのギターで弾いてる時、何かに取り憑かれてる感じがする」
 リズムギターの収録時にキュウがそんなことを言ってた。あながち間違っちゃいない気もする。演奏の善し悪しなんて次元を飛び越えて、音と魂が一体になってるような……。
 だけどその感覚は、歌を唄う時にも持ってたはずなんだ。
 魂が叫ぶ。心の奥底から湧き上がってくる感情を、口から吐き出す。とても自然にできてたことが今はできない。そのもどかしさがたまらなくて、歯ぎしりしてしまう。ギターでの演奏が自然にできてる分、自分の体に備わってる楽器を上手く演奏できないのが腹が立つ。もういっそのこと全て投げ出してやろうかなんて思ったりする。
 それでも逃げ出したくなる気持ちを抑えてスタジオに足を運び続ける。その足が重くなっていくのを実感する。どこかに救いはないのか?
 一体どうすりゃいいんだ俺は!?
 そんな日々が続くと、神経がだんだんおかしくなっていく自分がわかる。
「わかってるんだよ、そんなことは!」
 現実の俺が夢の中と同じように大声で叫ぶのに、そう時間はかからなかった。
「そんな簡単にいい歌が唄えたら苦労はしないさ!でも今の俺は数フレーズを通しで唄って休んでの繰り返しでやる以外に方法はないんだ!でないとどうしても最後まで声が続かなくなっちまう。こんなんじゃいつまで経っても終わりゃしないぞ!」
 神経が芯まで擦り切れて、感情が爆発する。3人の中で俺だけ一人、取り残されてる。一回のスタジオ入りで1曲分いいテイクが録れるかどうかを続けてる今じゃ、あと何回やれば全部終わるのか考えるだけで気が遠くなる。それまでずっとこの苦しみを引きずっていかなきゃいけないなんて思うと、ますます気が滅入ってしまう。
「……っ!」
 その続きを怒鳴ろうとして、喉に痛みが走って声が掠れて音にならなくなる。何度も咳打つ俺に慌ててキュウが駆け寄ってきた。
「……悪い、ちょっと、休む……」
 青空達の返事も聞かないで、背中を丸めたまま逃げるように扉を開けて休憩室に戻る。一緒について来たキュウが、喉に効く特製のドリンクを水筒から用意してくれた。はちみつとハーブとレモンの入った、愁が手作りした差し入れだ。それを引ったくるように手に取って、一気に喉に流し込む。熱さと気管に絡まったドリンクで、更に咽せた。
「ちょっと、たそ大丈夫?」
「……ホント、ここに愁がいなくてよかった。こんなみっともないとこ、あいつに見せられるわけないもんな」
 少しばかり強がって、ソファに体を預ける。隣の部屋を借りてる客達が休憩室外の廊下を通りすぎる時に、怪訝そうに俺達を見てた。
 録音ペースを上げるためにスタジオに入る回数が増えた分、俺の喉にもますます負担がかかってきた。風邪は引かなくても喉の疲れは取れない。筆談なんてめんどくさい真似もしてないし、相手に意志を伝える時は声が届きにくくても小声で喋る。そんなだからいつになっても回復しないと言ってもいい。
 全身で大きく息をすると、飲んだドリンクの熱さが手足の先まで伝わっていく。気が昂ぶるのを落ち着かせるために、今度は丁寧にキュウにドリンクのおかわりを頼む。
 まともに歌えないからって、周りに八つ当たりしてたらキリがない。だったら今俺にできる限りのことをやらないと、一緒にいる仲間達に申し訳が立たない。
 大きく深呼吸してから、俺達の録音してる部屋の扉を睨みつけて、勢いよく中に戻った。青空達に謝って、すぐさま歌録りの続きを再開する。そうさ、前を向くことを止めてしまったら、すぐに足を踏み外してしまう断崖絶壁の上に今、俺はいるんだ。
 だから泣き言なんて言ってられない。その日はそれで乗り越えたものの、翌日のスタジオ入りですっかり塞ぎ込んでいた俺がいた。ほんの少しでも弱い気持ちになると、いいテイクも録れない。それがわかってるから余計に辛かった。
 もうダメだ。
 そんな絶望の言葉を心の中で何度吐いたかわからない。でも、今度こそその気持ちは本当だと、今日のスタジオ入りで思った。
 どの曲を歌っても、青空にことごとくダメ出しを喰らう。イッコーの曲の歌入れは全部終わってるので、そっちに時間を割くこともできない。俺の声質が掠れてるせいなのかと詰め寄ったら、ハートの問題だって言われた。
 俺を不安にさせるようなことを言い出したのはおまえだろ!?
 その日は逃げるようにスタジオを後にして、イッコーの家にも立ち寄らずに一目散で溢歌の家に向かった。現実に存在する、今の俺の逃げ場所はそこにしかないと思った。
 幸い週末はスタジオの予約も取ってないので、溢歌の家に閉じ籠もってようと思った。
 ここならイッコーやキュウの突然の訪問もない。携帯の電源もOFFにして、外界からシャットダウンしようと決めた。二日分、間を置けば俺も多少は前向きになれるかもしれない。そんな気持ちと、もしかしたら溢歌が戻ってくるかもしれないって一縷の望みを抱えて。
 そんな外ればかりの願いも、時に神様は叶えてくれる。


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